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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

体裁を整えたくなる授業

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授業をおこなう場合、その授業のパッケージを滞りなく終わらせることを重視するのか、パッケージは終わらなくても、子どもたちの学びを重視するのかで、教師の考え方が表れる。よくある「研究授業」で、体裁を整えようとして、授業のストーリーを考え、学習者に役割を与え、それを演じさせるということがおこなわれている事を聞く。

しかし、そこに学習者に学びが生まれるのだろうか?公開授業で、教師が「失敗できない」と思い、そうしてしまう気持ちはよくわかるが、教師も学習者も失敗することで、学ぶ。その失敗を避けるということは、学びの可能性を否定するということだ。

特に学習者の「発表」がともなう場合、発表で失敗させると学習者が嫌な思いをしてしまい、その学習自体を嫌ってしまうという懸念がある。そこでしなければならないのは、十分な準備であり、発表前の声かけであり、アドバイスである。「今の時間にこれをやっておくんだよ」とか、「ここの部分がまだ足りないんじゃない?」というアドバイス。しかし、その「発表」の部分を経験していない学習者は、発表時に失敗する。そうなると、後から教師のアドバイスの意味がわかってくる。だいたい授業なんてそんなものである。

発表が始まったら、それはもう学習者の時間である。授業の目標で教師が求めたことができたかどうかを評価する場である。そんな時にその目標を下げたり、活動を免除したら、「やらなくてもいいのだな」というメッセージを示していることになる。最初に提示した目標には到達しなくてもいい、というメッセージを伝えていることになる。

事前準備時には熱心に活動させ、発表時は学習者に委ね、それを学習者自身でと教師が評価するのが授業である。「発表させて終わり」では授業でもなんでもない。

体裁を整えれば、いい授業だと思い込んでいる教師が陥ってしまう勘違いだ。