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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

「縦の道徳」と「横の道徳」


「民主主義」角川ソフィア文庫 2018年

1948年に文部省が「文部省著作教科書」として刊行したもの。今から70年以上前に書かれたものであるが、70年経った今でも実現されていないことばかりである。このコロナ禍により、日本の様々なほころびが露わになっている。『学び合い』をおこなうと、子どもたちが自由に学ぶ(本当に主体性に任している)姿が見えるようになるのだが、そこでその教室内の「ほころび」が露わになるのと同じである。

ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」がひじょうに重んぜられてきた。下は上を敬い、上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。特に、君に対する忠と、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるとされてきた。これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけるといった連中もあった。そのために、日本人は、ややもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという不評判をとるきらいがあった。このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間として尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを、意に介しない。日本人には、特にそういう欠点が多い。

70年前と今はそれほど変わっていない。上(縦)の意向があれば、横へのリスペクトなんて関係ない。上の威光をかさにして、横、または下を陥れる。横をリスペクトして、上の暴走を止めなければならないのに。

だから今は横へのリスペクトを構築することが大切だ、というのもよくわかる。しかし、横が全てリスペクトに値するものではなく、現実問題として、自分を陥れようと虎視眈々と狙っている存在であったり、その人のプライドを守るために下に見る言動を平気で投げかけてくる存在だったりもする。互いにリスペクトできる人を徐々に増やしていくことも大切だが、その人の言動は真実なのか、フェイクなのか、信用に値するものなのか、でたらめなのか、見極める力(リテラシー)も必要になる。これって、互いに関わる機会を持つだけじゃ、できない。関わる経験をたくさんして、トライアンドエラーでできるというかもしれないが、エラーの時の心の傷で何本心が折れたことか。それほど私の心は多くない。

フェイクかどうか、陥れようとしているかどうかは批判的思考や、論理的思考、メタ認知などを鍛える学びから生まれる。