Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

模擬授業の固定観念

f:id:F-Katagiri:20211215150235g:plain
学部2年生の授業では、グループになり、教科の模擬授業を行う。グループで授業を考えるのは折り合いを付けるのが難しそうだが、1人で抱え込むよりも、授業を考える視点が増え、今までよりも細かく授業デザインを作っている印象を受ける。何でグループにしたのかというと、単純に受講者が増えたというのがきっかけだったが、個人でやっていたときは、15〜20分の模擬授業が、総模擬授業数が減ったため、30分の模擬授業が行え、しかも2回行える。

1回目の模擬授業が終わった。総じてよく考えられていて、チャレンジングな模擬授業だった。「2年生がうまくできなくて当然、上手くいかなかった点、失敗から何を学んでいくかが評価対象だ」と伝えていた。

今までは、1回の模擬授業をやりっぱなしで、模擬授業での学びを次の授業に活かせる機会はなかったのだが、2回目を設定することで、更なる授業デザイン力のアップを期待できる。そして、30分の長時間授業初体験(他の免許科目等の模擬授業では、5〜10分の模擬授業しか経験していない)なので、授業中の「修正」も体験できることになる。

かといって、授業デザインについて、学生さんたちが悩むのは昨年までと同じだ。私との対話的打ち合わせを数回くり返すグループもある。GoogleClassRoomを通じてコメントでやりとりも何度もする(これを通じておこなうと、以前のやりとりが残っているからありがたい)。そんなことを通して学生さんたちは授業に対して固定観念でコリ固まっているということがわかる。これは今年だけということではなく、以前からそう感じていたのだが、特に今年は対話的打ち合わせを何度もしているのでそれがはっきり見えてきた。

「面白い課題」をせねばならぬ

「面白い授業」幻想が浸透している。面白ければ、学習者は意欲的に活動し、寝ることもなく、荒れることもない。一面でそういうことはあるが、「活動あって学びなし」という批判は「総合的学習の時間」だけの話ではない。目標が設定されていない活動は、「這い回り」と同じである。

「目標・課題・評価の一体化」

ということがあまり意識されない。たぶん今までの授業で学んでこなかったのではないか?「指導と評価の一体化」という語は教育委員会が授業改善によく使っているスローガンだが、そこになぜか「目標」がない。目標なんて設定しなくても、「それが教科書にあるから」というのだけで学習者に学ばせる意味があるという捉え方なのだろうか?

「何のために面積を求めるの?」
「何のために詩を作るの?」
「何のために英単語を覚えるの?」

これらを学生さんに問いかけるのだが、初めは「ぽかーん」として、全く答えられない。つまり、目標を意識していないのだ。持って来た活動自体は面白そうなものばかりで、きっと30分間の授業中、それなりに取り組むだろう。しかし、取り組んだ結果何を学んだのか?と訊かれて「自分の学び=主体的な学び=自立的な学び」として身についたものを答えられるようにはならないだろう。

どんな力をつけるためにそれをやるの?

というのが「目標」となる。これを今まで考えたことがない、もしくは、考えられている授業を受けたことがないため、「面白い活動」のみに目がいってしまう。

目標には、「面積を求める力」「詩を作れる力」「適切な英単語を使い分けられる力」と書いてくる。いやいや、それは、課題であって、「面積を求められるようになると、何かいいことあるの?」と再質問をする。

人生のうち、紙に書かれた図形の面積を求めることを、授業やテスト以外で行うことは、あるの?建築士などにならなければ、ほぼないよね。面積を求めることは、何に活かされるんだろう?いや、面積を求める力が無いと、どんなことに困るのだろう?

と聞き返して考えさせる。

グループ活動を入れねばならぬ

全ての模擬授業でグループ活動が入っていた。しかし、打ち合わせの段階で、「グループ活動が必要なの?何のために入れるの?」と問うと、理路整然と答えられる人は少なかった。グループでおこなうことで、この学習は進まないのでは?と指摘したところもあった。グループ活動の意味は、この模擬授業をおこなったうちのゼミの学生さんたちと先日ディスカッションした。
payforward.hatenadiary.com
この検討無しに何が何でもグループ活動を入れるべきと思っている傾向がある。そのような指導があったのか、固定観念なのか、どうなのだろう?

学習者の発信全てを肯定的に受け入れねばならぬ

学習者が発信したら「ありがとう」と言う。これは、今までほとんどの学生さんたちがおこなったことだ。今年も例に漏れず「ありがとう」と言う。活動の指示の最後にも「お願いします」と言う。学校での学習は、「やってもらう」ことなのだろうか?いやいや、違うでしょう?学習は、学習者が主体的にやるべきものでしょう(理想?)。

ピアニストを目指す人が、ピアノを毎日練習して、その指導者が「ありがとう」と言うだろうか?「お願いするから練習してくれ」と言うだろうか?

お願いやお礼じゃ無くて、「評価」をしなさいと指導する。発表、発言があったらその発表内容は、評価規準に照らし合わせてどのような達成度だったのかを評価する。「ありがとう」と言ったり、拍手なんてしたら、それで目標達成を伝えたものだ。授業者はそう思ってもいないのに、お礼を言ったり拍手をしたりする。もしかしたら、評価規準は、指導案に書いているのに、それを頭に入れて授業をしていない可能性がある。

誰かが何かを発表したら、周りの学習者も拍手をしてそれでおしまいにする傾向がある。本当の学びは、発表の時点で学びを終わらすことでは無く、その発表を題材に教室内の全員が「対話」することだ。拍手なんかしたら質問もしにくいし、不備も指摘しにくいはず。「発表→拍手」のオートマチックな動作は、やめてほしい。もちろん、全てが終わって労をねぎらうための拍手はしていいと思うのだけれど。

だから、拍手や「ありがとう」ではなく、学習者が発信したら、「なるほど」と受け入れ、「おー」と驚き、「こういうことなんだね」と意味付けし、「ここまでできている」と目標までどの隔たりを示すことが大切だ。

点数を付けるのが評価である

これはふりかえりに書いてあったのだけれど、「点数を付けるのが評価だと思っていた」というもの。これは現場の先生、特に高校現場の先生も持っている固定観念、というか、誤解である。一定期間の学習に対する点数付けは「評定」である。これが例えば学期ごとの「評定」だったら、「1学期こうだったのだから、学期頑張ろう」という「評価」にもなり得るのだが、どこをどう頑張ればいいのか、なんていうメッセージを点数(=成績、評定)から感じ取れる学習者はいないだろう。不可能だ。

しかしそれを「評価」と捉え、「評価をする=点数を付ける」と思い込んでいる人に、「評価をしなさい」なんて言葉を言っても通じないのは当然だ。

授業中の学習者の発信に対し、上記項目で書いたような「ツッコミ」を入れることが評価であると伝えたら、わかってくれた学生もいた。

評価はツッコミである」

終わりに

学生さんたちは、最も「評価」が難しいと感じていたようだ。そうだと思う。指導案の評価基準にA〜Cの項目を設定しても、実際にはその都度評価できていない。声かけもできていない。その基準設定も、学習目標に対するものでなければ、意味が無いものである。ということは、自分が設定した学習目標は妥当なのかも考えなければならない。初期の段階では、学習活動を目標として設定してしまう。「◎◎ができるようになる」と書いてきた人は、「それが出来たら何かいいことあるの?どんな力がつくの?」というツッコミに答えられない。

しかし、指導案を練りに練っていくと、私のツッコミの意味がだんだん分かってくる。どんな力を学習者に付けたいのか考えてくる。初めは活動中心で考えていたのが、目標をまず考えるようになってくる。こんなふうに授業デザインづくりが進化してくるのを見ていると、どんどん学んでいるな、教師に近づいているなと実感する。