授業にせよ、研究にせよ、その人主体で進めていくのにもかかわらず、その人はその授業、研究の目的が分からない。
「今日の授業の目的は、○○の力を付けるためです。」
「この研究の目的は、○○を明らかにするためです。」
ということを言うのを忘れる、というか、言うべきだという考えさえ無い。
それはそれまでの教育で、目的も告げられず、「山の頂上へ行け」と強いられ、頂上に行くことが目的であったり、山に登ることが目的だという習慣を付けられてしまったからだと推測される。
手段が目的になっている。
漢字の書き取りは、漢字を覚えて○○できるように……というのが目的なのだが、漢字をノートに定められた数だけ書くことが目的で、その先に何があるのか分からないまま作業を強いられる。
組織の維持が目的になっているところもある。その組織はある目的があって作られたものなのに、組織ができて軌道に乗ると、その組織の維持が目的となり、本来の目的は忘れられる。組織の存在目的が忘れられたら、その組織の存在意義が無いので、維持する必要は無くなる。
敢えて目的を告げずに(隠して)進ませることもある。目的を知ってしまったら、人間の良心と齟齬を起こして進まなくなるからだ。
戦争時に良くそういうことは行われている。為政者は本当の目的を上手い具合に隠して、民衆を自分の目的のために先導する。
為政者自身もその目的が分かっていない場合もある。またまた「チ。」の例だが、C教の教えの都合がつかない部分を「神はそう作り給うた」と誤魔化し、平気で異端者を殺す。その殺人には罪悪感も何も無い。15世紀の話では無く、今現在も各地で殺人が行われている。
だから、民主的な社会をつくるためには、「その目的は何?」「自分は何のためにやっているの?」というツッコミを絶えず入れて、ちょっと立ち止まらなければならない。
「何のため?」と問うのは、それほど難しいことなのだろうか?と思う。「何のため?」と問わないのは、問う習慣が無いのは、問う気持ちを起こさないのは何のためか?(906字)