Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

サウナと大相撲

かわら亭に行く。

大相撲が始まった。大相撲だけが唯一サウナで見てもいいと思えるテレビ番組だ。今日は蒸し暑く、仕事でも疲れたので、サウナに行った。早めに行ったので、それほど混んでいないかな?と思いきや、サウナで1人になるということはなかった。

サウナには先客がおり、6チャンネルを見ていた。おいおい、大相撲中継を見ないなんて、サウナーとしてどうなのかな?と勝手に思って、その人が出ていって1人になったので、すかさずNHKに変更。最近は1セット目6分で耐えられなくなるので、サウナを出て水風呂に入る。

2セット目、私がNHKに変更したからそのままか?と思っていたら、懲りもせず6チャンネルを見る客がいた。しかし、どうでもいい芸能ニュースのガチャガチャした番組を見ながら、サウナに入って、休めるのか?ととても不思議に思い、その客が出たら、すかさずNHKに変更する。

3セット目は大相撲中継のままだった。ほっとした。先客がいたが、この客は同志だと思った。

かわら亭は、コロナ禍営業停止期間にリニューアルして、檜のキンとした匂いがサウナ室に充満している。とても気持ちがいい。これでテレビがなかったら……ともうしかたがないことを何度も思うのだが、大相撲中継をしている時だけはその残念感はちょっと薄れる。

気温も30℃近くになり、外の水風呂の水温が高くなったのだが、半身水浴をすることで、体が冷えるから大丈夫。不思議なもので、全身を水にうずめているよりも、半身水浴の方が体の芯まで冷える気がする。

今日のととのい度→4 ☆☆☆☆★

八村塁のディフェンスのすごさ

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今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」は、体育の授業だ。佐藤君がバスケットボールをずーっとやっていて、バスケットボールの授業となった。体育科の目標に

豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次の通り育成することを目指す

とある。そのために「する・みる・支える・知る」ことでスポーツと関わる必要がある。

今回は、スポーツを「知る」ということで、八村塁の出ているNBAの試合のダイジェスト版の動画(YouTube)をもとに、それぞれのプレイを見ながら、ルール、戦略などを解説してもらった。

私は、バスケットボールWリーグの試合は何度か応援に行ったことがあるし、テレビで試合も観るし、バスケマンガやアニメも見るので、だいたいのルールは知っているが、戦略となると、ほとんど知らなかった。

今回は、「スクリーン」という技を中心に、どこでそれが使われて、どんな効果があるのかということを解説してもらった。スクリーンだったら、すぐに体育の授業でも学習者が使えるような技だし、やってみたいと思わせるものだった。

私の体育経験でのバスケットボールというと、シュートやドリブルの仕方をちょこっとやって試合だった。だから、バスケットボールのファイルがどのようなものであるかはほぼ知らず、体が当たればファイルなんだろうと思っていたが、大きな勘違いであった。本当に知らないことは多かった。「知る」ことで、やってみたいと思うし、危険なファウルもなくなる。高校教師時代、だいたい1学期や2学期の期末考査の後の授業日、午後からクラスマッチでバスケットボールがあったのだが、素人たちがやっていて、今から考えるとかなり危険なファウルも頻発していたと思う。そこの位置からボールを取りに行けばファウルにしかならなかったり、無理に取りに行くから、接触して怪我したり、と、無知から来る危険なプレイも生まれていた。知っていればそれは避けられていたんだろうと思う。

今回の模擬授業では、今回ビデオを見ながら学習し、そこで戦術やルールを理解し、次の時間バスケットボールをプレイするという設定だった。すぐさまバスケをプレイしてみたいと思わせてくれた授業だった。

今回の模擬授業の様子は以下YouTube動画で閲覧できる。こういう解説って、スポーツを見る上でとても大切だと思う。プレイしている人は、「そんなこといわなくても当たり前」と思っているらしいんだけれど、素人にしては全くわからない。そういうことを伝えてもらうことで、スポーツを見るのが何倍も楽しめるというのを実感できた。

20200714教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題《佐藤・体育バスケットボール》

ドーミーイン松本

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ホテルにあるサウナ。宿泊しないと入れないのかもしれない。本格的なサウナで、とても満足のいくものだった。

長野出張だったので、前泊して松本に泊まった。昨年も出張はあったが、その時はこのホテルは高くて臆してしまった。しかし、この時期、手頃な価格になっていた。しかし、その時も泊まればよかったと思わせてくれるサウナだった。

人工温泉らしいのだが、水質は申し分ない。水風呂も全くカルキ臭いことはなく、とてもしっとり肌に感じられる。サウナは定員8名前後ぐらいだが、コロナウイルス感染症対策で、4名に限定されている。日曜の夕方で丁度空いている時期だったのか、満員になることはなかった。温度は86℃だが、とても熱く感じられる。湿度がある程度あるからなのだろうか?窓があり、内風呂と開け放された窓の外の露天風呂が見えるので、とても解放感が感じられ、ゆったりできる。何よりも気に入ったのは、テレビはなく、ヒーリングミュージックがかかっているところだ。テレビがないサウナ、最近ではとても貴重になってきた。

いつもは水風呂に入る前に水風呂の水をかけてから入るのだが、すぐ近くにシャワーがあるので、そこで汗を流して入る。水風呂に入る前に冷たい水を浴びた方がいいのか、お湯にして、水風呂に入る時、初めて冷たさを感じるべきなのか、意見が分かれるところだが、私は今のところ答えが出ていない。どちらでもそれなりに気持ちがいい。水風呂の水をかけると、大量の水が頭からかぶれて、「ひゃーっ!」という気持ちになるし、先にシャワーで汗を流すと、水風呂に足から徐々に入っいてくスリル感もある。

水温は20℃で、それほど低くないが、そういうときの水風呂半身浴だ。体全体がどんどん冷えていく。

このサウナで、気に入ったのが、浴場が9階で、露天風呂があり、展望風呂となっている(立ったときに外が見えるのだが。)そこにデッキチェアがあり、外気浴ができるのだ。ちょっと遠くを見ると松本の山の緑が目に映え、緩やかな風が体にあたる。最高の外気浴となった。休憩スペースがちょっと狭いのが玉に瑕で、2人分のチェアしかない。他に休憩できるスペースもあまりない。空いていてよかった。

曇の中、休憩していた。顔を上に向けていたら、ちょっと雲が薄くなり、明るく感じてきた。その時に完全なるととのいがやって来た。全身泡立ち、光に満ちるという恍惚感、本当に久しぶりの感覚だった。

今日のととのい度→5 ☆☆☆☆☆

カセットテープ・ダイアリーズ

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原題は「Blinded By The Light / 光に目もくらみ」で、こっちの方がよくないかな?舞台は1987年のイギリスの田舎町で、当時はまだカセットテープで聞くのが当たり前で、わざわざ「カセットテープ」と邦題に入れると、「古き良き音楽」というニュアンスが出てしまう。でも、主人公はソニーウォークマンで聞いていて、最先端テクノロジーを使っている。聞いている音楽はブルース・スプリングスティーンで、一世代前の音楽なんだけれど、だから「カセットテープ」と入れたのだろうか?

ブルース・スプリングスティーンは、ヒット曲しか知らない。当時ラジオから流れてくるヒット曲を聞いていただけだ。歌詞の内容なんて全く知らず、「Born in the USA」なんて、アメリカ賞賛のかっこいい曲だと思っていた。(つい最近までそう思っていた。)
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主人公はパキスタンからの移民で、移民だからこそ、クラスメイトから紹介されたブルース・スプリングスティーンの曲の内容を噛みしめて聞いたからこそ、自分の状況を歌ってくれていると感じた。貧困、人種差別、キャラクターの否定など。そこから抜け出て、この街から脱出したいと常々思っていたことをブルース・スプリングスティーンは歌ってくれていると思い、曲にのめり込んでいく。「何でこの人は自分の状況をわかってくれているんだろう?」と思わせてくれる。私にとっての山下達郎であり、かつての中島みゆきであり、佐野元春でもあった。そんな感じ。

とても好きな場面があり、ネオナチが街にはびこり、パキスタン人だと言うことで、馬鹿にされ、差別される。ブルース・スプリングスティーンを教えてくれた友達とレストランにいると、「そこは俺たちの席だ」とどかせる。いったんは席を移動するが、「ここで何か言わなきゃダメだ」と、ブルース・スプリングスティーンの曲の歌詞を友達と一緒に歌い、そいつらを圧倒する。

意志の力は言葉の力だ。言葉の力を借りることによって、態度をはっきりさせることができる。そんな風に、歌詞や小説や詩やマンガの台詞から、我々は意志をもらっている。格好良かった。

映画の中で、ブルース・スプリングスティーンの曲が何度もかかる。聞いていて、なんだか、知っているような曲ばかり、と思った。そうか、大学生時代、浜田省吾佐野元春を聞きまくっていたが、歌詞は浜田省吾で、曲調は佐野元春なのか、と思った。2人ともブルース・スプリングスティーンから影響を受けているということだ。

ちょいちょいあるフラッシュモブ的な演出は、こそばゆくなるが、その当時の高校〜大学生って、そんな感じでしょう。

最後の主人公の演説は、とてもよい。「全員が勝者じゃなければ勝ったことにならない。」分断によって国を治めようとしていたサッチャーへ向けた言葉であり、現代の世にも通じる言葉だ。

外国語の見方・考え方とは?

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外国語の「見方・考え方」

今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では、「外国語」を扱った。「外国語」といっても、我々のイメージでは「英語」しか思い浮かばない。

高等学校学習指導要領解説には、

外国語によるコミュ ニケーションの中で,どのような視点で物事を捉え,どのような考え方で思考していくのかという,物事を捉える視点や考え方であり,「外国語で表現し伝え合うため,外国語や その背景にある文化を,社会や世界,他者との関わりに着目して捉え,コミュニケーショ ンを行う目的や場面,状況等に応じて,情報を整理しながら考えなどを形成し,再構築すること」であると考えられる。

とあるのだが、全くわからない。イメージが湧かない。新しい学習指導要領には「コミュニケーション」ということが前面に押し出されており、今までのものとは方針が変わっている。今までは「読み・書き」ばかりで、中学校から何年も英語を授業で学んでも、英語を喋れるようにならないという反省のもと改定されたのだと思われる。

「見方・考え方」は、解説の文章の「外国語」を「日本語」に変えたとしても、成り立つものだから、「外国語」を学ばなくても「どのような視点で物事を捉え」、「どのような考え方で思考していく」「文化を、社会や世界、他者との関わりに着目手捉え」「情報を整理して」の部分は、できる。

国語科でやりにくい唯一の部分は「再構築」のところなのかもしれない、という話に移行した。

そもそも英語を学ぶ必要性はあるのか?

「外国語」とはいっても、ほとんどの学校で扱われているのだから、「英語」と表記していく。

どうして「英語」なのか?ということだが、なんだかんだいっても結局は占領されたからだ。過去、植民地に対して母国語を使うことを禁止し、占領した国の言葉を使わせたという歴史は多々ある。植民地の文化を根絶やしにして、占領国の文化を浸透させ、占領国の言いなり、産業の消費地にするために、占領国の言葉を使わせるのは都合が良い。

幸い、アメリカはそのようなことはしなかったし、英語は過去の歴史(イングランドの各国の植民地化)により、多くの地域で使われるようになったので、「世界共通語」として「便利」な語となって、英語を学習すると「お得」だよという思われているが、これはたまたまアメリカに占領されたからである。

英語を学ぶ必要性に関しては、現在日本のほとんどの地で英語を学ばないと食いっぱぐれるという状態は起こっていない。日本の英語教育では「いつか役に立つかもしれないから」と言いくるめられて英語授業がおこなわれているが、その「いつか」は来ない。少なくとも私には来なかった。これからを生きていく若者には来るのかもしれないが、その時は日本の経済状態は悪くなり、人口が減り、移民を受け入れている状態なのかもしれない。そうなったら、英語よりも中国語を学んでいた方が食いっぱぐれが避けられるかもしれない。

英語を喋れるようになって、「世界」で活躍できる人材を育てる必要がある、と、まことしやかに言われてもいるが、そんなの全員じゃないし、その必要がある人だけ英語を学べばいいはず。じゃあ、外国語は選択科目にしたらいいのでは?と思う。「世界」で活躍をしたい人は英語を学び、日本文化を更に深く学びたい人は、中国語や韓国語を学べばよい。大学ではそうなっているが。

スマホ翻訳でいいのでは?

あと数年できっとAI自動翻訳機能がスマホにつく。これでいいのではないか?という話にもなった。学習指導要領が「コミュニケーション」を前面に押し出しているのだから、コミュニケーションを取るために、スマホがあればよい。自分の肉体が英語を発さなくても、スマホが発してくれるのだから、コミュニケーションを取ることができる。約7年前、高校教師だったとき、チェコから留学生が来た。授業によっては図書館で自習をしていた。その様子を見にいく当番となり、私はiPhoneを片手にコミュニケーションをはかった。チェコ語の翻訳機能を使ったのだ。

iPhoneがあったから、コミュニケーションを取ろうという気になった。私の英語能力だけだったら、英語で話しかけようとは思わなかっただろう。そもそも英語に関してはかなりの劣等意識がある。劣等意識があるものを使おうと思わない。そう、私は中学校からの英語教育で「自分は英語が喋れない」という自己評価を得たのだ。

コミュニケーションを取ろうという意欲は、iPhoneがあることによって生まれた。

今までの英語教育の弊害

授業を何年も受けることで、「正しい英語」というものがあることを刷り込まれる。それ以外は喋ってはいけない、と思わされる。英語の時間、頑張って喋ったら、「正しい」英語に直される。そりゃあ、コミュニケーションを取ろうという気は起きなくなる。「正しい」のか、「正しくない」のか、じゃなくて、「伝わった」のか、「伝わらなかった」のかが重要なのじゃないだろうか?それが「コミュニケーション」を前面に押し出している理由じゃないだろうか?

物事は言葉が正確じゃなくても伝わる。人と人とのコミュニケーションなんだから、こっちが間違っていたとしても、相手が意を汲んで解釈してくれるのだ。誤解してもそれを微修正していくことこそがコミュニケーションなのだ。大昔のコンピューター入力は、一言一句一字まで「正確」じゃないと受け付けてもらえなかった。今やAIで修正してくれる。英語教育も互いに微修正するのがコミュニケーションであると前提から始めた方がいいのではないかと思う。

言語が変われば見方が変わる

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内田樹さんは、「言語の檻」という言葉を使う。日本語を使っていると日本語の檻から出ることができず、思考も日本語的思考から抜け出ることができない。だから、外国語を学び、違う見方考え方を得るのだという。

確かに単語レベルでいえば、日本語で表す雨の種類と英語で表す雨の種類は違う。日本語の方が多いと容易に推測できる。これは当たり前で、日本は雨が多く、雨を生活に取り入れてきたからという単純な理由だ。英語が母語の人は、五月雨も春雨も区別ができないのだろうと思う。日本語を母語としているから雨への見方が変わってくる。こんなことは全ての言語でおこなわれる。

単語レベルだとそういうことは体感できるのだが、文章レベル、思考言語レベルで、こういうことを体感できないものか?と思う。「英語を使うから、こういう思考ができる」なんてことを体感できたら、とても楽しい。日本語じゃ、このことは考えられないけれど、英語だと考えられる、ということを体感してみたい。不幸にして私は英語で考えられないから、それができない。

あなたの人生の物語
あなたの人生の物語」(「メッセージ」として映画化された)では、エイリアン(ヘプタポット)の使う文字は書き出しと書き終わりがない。音声言語も始まりと終わりがなく、一息で全てを表している、という。よって、「時間」の捉え方が地球人と全く違い、過去とか現在とか未来の概念がない。よって、過去、未来を行き来できるというのだ。

主人公もその言語を習得することで、ヘプタポットと同じ思考、行動ができるようになっていく、というのが面白い。(映画の作りもそんな感じでかなり混乱するのだが。)

キング牧師のスピーチのような「かっこいい」表現を日本語でできるのか?という話題にもなった。「not-but構文」ってなんだかかっこいい。「肌の色ではなく、人格によって認められる」という表現よりも、キング牧師の使った英語がクールに感じてしまう。それは英語がクールだからということでは全くなく、「not-but構文」がクールだからだ。「no move no football」を訳すと、「動かないのはサッカーじゃない」って、日本語だともっさりしちゃう。

もちろん、日本語だとクールな感じになる表現もあるのだろうけれど。

授業で「○○を学ぶと利益が上がる」は逆効果ではないか?

内田樹さんは、さらに「英語を学ぶと上級学校に行ける、金が儲かる」というストーリーで英語教育がなされると、どうやって労力をかけずに英語を習得した証を得られるか?ということばかりにリソースを割くようになる、とも言う。つまり、簡単に英語○級の資格を得られれば、その抜け道を探り、資格を得ることがゴールとなる。これは大学入試でも採用試験でもなんでも当てはまる。

級を得ること、試験をパスすることがゴールだと思わせられると、「何のために」を全く考えなくなる。簡単に英語○級を得たとしても、新たな見方・考え方が得られていないというのは自分でわかる。何の成長も無いのだ。試験をパスすることはゴールではなく、スタートである。どうして医者になるのか、どうして教師になるのか、どうして大学生になるのか、それらがない人は、スタートの先をうまく歩むことができない。

これはもちろん他の教科でもいえることだ。教科そのものを学ぶ楽しさを学習者に感じてもらえなければ、「かもしれない」詐欺(役に立つかもしれない)教師となる。その教科を学ばなくてもいいじゃん、ということにもなる。その教科を学ぶ楽しさ、学びの楽しさを伝えられないんだったら、教師としての技量は低いといえるだろう。

英語の授業は英語でコミュニケーション取れるようにするもの

受講者と私で、「どうして自分たちは英語でコミュニケーションを積極的に取ろうとしないのだろう?」という対話から出た話題をつらつらと書いてきた。自分たちが受けてきた英語授業が自分に合わなかったということに過ぎないのだが、特に私の受けてきた英語授業は、コミュニケーション前提の授業じゃなかった。英語を喋らず何十年経つだろうか?

そもそもコミュニケーションとは体が欲するものである。英語という手段を得れば、一挙にコミュニケーションの相手は何十倍、何百倍にもなる。しかし、結果として私が受けてきた授業は、英語でコミュニケーションを取りたくない、と思わせるものであった。だって恥ずかしいもの。その「檻」を壊すことが英語の授業では先ず必要なことなのではないか?という結論だった。

えちご川口温泉

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2回目の来館。緊急事態宣言解除から、結構時は経っているが、解除後すぐと同じ対応をしているえちご川口温泉は、信頼できる温泉施設だと思った。来客は県内限定ということではないと思うのだが、住所等を記入し、手の消毒を促している。

客は少なく、ゆったりできた。今回サウナは前回よりもとても熱く感じられて、いつもは3セット目は12分入るのだが、それが我慢できなかった。客が少なかったからだろうか?とは言ってもサウナで一人きりになることはなく、テレビを消すことができなかった〜。

前回よりも気温が高くなり、露天風呂の縁で寝転ぶと、背中にじわりと温かさを感じられて、とても気持ちよかった。遠くの鉄橋を列車が渡る音や、トンビの鳴き声が聞こえ、これだけでリラックスできるのは当然だ。

気温が高くなると、ここの水風呂は水道水ということだから、やっぱりちょっと温度が上がってきているのを感じる。いくらでも入れる感じなのだが、3セット目にふと思い立って、水風呂での半身浴を試みた。なんと、全身漬かるよりも冷たく感じる。半身浴にすることで、血流が強くなり、全身に冷たさが回る感じがするのだ。下半身の冷たい状態を上半身の温かい血液で戻そうとする働きなのだろうか?上半身も冷たく感じてくる。そして、休憩前に上半身も水に沈めると、冷たさが倍増して感じられた。

夏の水風呂対策は、半身浴で決まりだな。

ここの夏野菜カレーもおいしかった。

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

「山月記」ラップ

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今日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」は「山月記」ラップを作るという実践だ。うちのゼミの西岡君の今年のテーマ「ラップ」なのだが、国語でラップを取り入れたら、どんな効果があるのか、未知数ということで実践し、意見をもらう授業だ。

ラップを導入するねらいは、「言葉の響き、リズムを意識する」ということだ。私もラップを作ってみて、どんな意識が使われたかというと、音韻の感覚だ。俗な言葉でいえば、「ダジャレ」みたいなものなのだが、なんだかそれとも違う気がする。それでも、私はダジャレが口をついてくるようではないので、かなり苦労した。

ラップはラップでも「山月記ラップ」である。山月記に使われている言葉を用いた方が雰囲気出るし、山月記だからこそ、取り入れると心地いい漢語がふんだんに使われているから使わない手はない。そしてその漢語の韻と同じような別の語も見つけなければならない。というように、かなり頭を使う作業だった。ラッパーはこんなこと事もなげにやっているんだろうか?

私の作品は、こんな感じ。

オレは空谷に向かって咆える
オレは月に向かって咆える
人間の生活を終える
獣の一線を超える
そびえる山 輝く月
おびえる木々 ざわめく露

「クライマックス」の場面から取った。

どこを切り取るかで、山月記へのその人の見方がわかってくる。課題は「李徴の気持ちを表す」だったので、ストーリーが進むにつれて、いろんな場面のいろんな李徴の気持ちでラップを作ることができる。それだったら、いっそう、ラップで山月記のストーリーを語る、という活動もできるな、という話も出た。しかし、「ラップをすることで解釈を深める」というものになり、当初の「言葉の響き、リズムを意識する」とずれてしまう。それなら、群読でもいいはずだ。

また、ほとんど描かれていない袁傪、全く描かれていない妻や子、役人だったときの上司のラップも考えると面白いと話題になった。特に李徴の子のラップをどう作るかは、様々な想像が膨らんで、面白いかもしれない。

山月記には漢詩が載っているのだが、山月記のものに限らず、漢詩の学習では、字数とか韻の場所とか、知識でしか学ばないことがある。それが反映するのは、中国語(古代)で読んだときだけなのだが、漢詩の学習は書き下し文でなされ、音韻的な感覚は、体感することができない。しかし、漢詩をラップにすることで、それを少しでも感じることができるのではないか?と感じた。ラップ以外でそれを体感できる実践はあるのか?これなら、「音の響き、リズムを意識する」方向になると思われる。

西岡君は去年「漢詩の英訳化」という研究をしたが、今年は、「漢詩のラップ化」という研究もしてみると発展するのでは?

西岡「先生」と、私のラップは、YouTubeで。

山月記ラップ 2020/07/02の大学院授業の実践