Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

第2回教科の見方・考え方を身に付ける授業デザイン研究会

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第1回は2月に静岡で開催したのだが、第2回はオンラインで開催。オンラインだからこそ、各地の人からも参加していただいた。

今回は教科をピックアップして、それぞれの実践で狙っているところの共通点を探ることから、「教科の見方・考え方」とはどういうことか?ということを考えてもらう機会にしたいと考えた。

どうしてその教科を学ぶの?

大学院の授業でも、「高校生が『先生、受験科目に無いのにどうしてこの教科を勉強しなきゃ行けないんですか?』と聴いてきたらなんて応えるの?」という問いについて考えてもらったが、「コミュニケーション力を付ける」だの、「協働力を付ける」だのと言った結論だった。いやいや、それじゃ、数学を学ぶ意味が無いじゃない?国語じゃ無くてもそれって学べるでしょ?そもそも、教科なんて学ばなくても、アルバイトしていればいいじゃん?ということになる。

コミュニケーション力やら、協働力やらを身に付けさせるために、苦労させて「役に立たない(と教える方が思っている)」教科を学習させるのって、労役として穴を掘らせた後、穴を埋めさせるようなものだ。役に立たないと思っているものを「そこにあるから」としてやらせているって、そもそもそれは教育じゃないじゃないか。本当に教科を学ぶことが役に立たないと思っているのなら、それを「やめさせる」努力をしなければならない。最近話題になっている「ブラック校則」をやめさせるように。しかしそこまでしようとする人はいない。

いや、まだ言語化されていないけれど、教科学習には「汎用的能力」、「メタ認知能力」を身に付けさせる「役割」がある。それが「教科の見方・考え方」である(と思われる)。その教科が好きで、その教科を専門にやっていると、その教科を学ぶ意味を自分に問わないで「大切だ」と思ってしまっている。そこから一歩引いて、一体この教科にはどんな意味があるんだろう?ということを「掘り当てる」のがこの会の目的の1つなのだ。運慶が仏を大木の中から掘り当てる作業のようなものだ。

そもそも「見方・考え方」とは何なのか?

学習指導要領解説には、具体的に書かれていない。「科学的に探求する力」とか、「対象と言葉の関係」とか、つまり、それってどういうことなの?と突っ込まなければ、そのままわかった気になるような表現だ。そこにツッコミを入れて考えるのがこの会であり、自分の専門の教科であったら、責任をもってツッコミを入れてほしい。ツッコミを入れてかみ砕いて、自分の受け持つ児童・生徒に分かりやすく説明できるようになって欲しい。

「論理的に考える力」とか、「市民性」とか、そういう言葉だけで誤魔化さない。じゃあ、数学で身につく「論理的に考える力」と、国語で身につく「論理的に考える力」では何が違うの?同じだったら、どっちかしなくてもいいじゃん、という質問に対してどう応えるのか?応えられなければその教科をカリキュラムとして「押しつける」意味が無くなる。

地歴/公民科や理科は、「分野」というものがあり、それが「見方・考え方」に通じているところがあり、とても分かりやすい。地歴/公民科であれば、「位置・空間・時間・政治・法・経済」という分野(=視点)で社会現象を観察、分析していく。理科であれば、「エネルギー・粒子・地球・生命」という分野(=視点)で自然現象を観察、分析していく。こう考えると、「見方・考え方」は「武器」であるという意見が出た。なるほど。「切り口」という比喩表現がぴったりだし、「武器」という表現もぴったりになる。

決まった「見方・考え方」は無いのか?

一方、国語や英語に関しては、「言語による見方・考え方」という表現が学習指導要領解説にあり、この解釈は要領を得ない。教師の解釈によっていかようにもなってしまう。しかし、それでもいいのだと私は思う。まだ決まった解釈が無いのだから、教師の解釈によって、授業デザインを考えていけばいいとも思う。そもそも今まで「見方・考え方」という視点で授業デザインを考えている人がほとんどいなかったのだから。

とても曖昧な部分を孕んでいる「見方・考え方」なのだが、これから解釈をしていくことによって、「見方・考え方」を意識した授業デザインがたくさん生まれてくるはずだと思っている。その教科を学ぶ意味を本当に考えれば、その教科で無ければならない授業が生まれてくる。

国語で言えば

目の前に文章があるからそれを「正確に」読み取って、自分一人でも初めて出会った文章を読めるようにする。

という超曖昧な意味から脱却出来るはずだ。「正確に」とは、何をもって「正確に」なのか?果たして本当に「正確な」読み取りというのは存在するのか?そこから考えていかなければならない。大雑把な言葉で誤魔化してはいけない。

今までは「論理的思考力」というような大雑把な言葉で曖昧にされていたことなのだが、そこに更に解釈を加えることで、「それぞれの」解釈になってしまうことがあるのだが、これから「それぞれの」解釈をすりあわせて行く必要がある。なにせこれまでは「それぞれの」解釈自体が無かったのだから。

武道を学ぶということは、本来で言えば「人殺しの方法」を学ぶことであった。しかし、人殺しが日常茶飯事では無くなった時代になり、「相手を倒す」ことを目的とはしているが、その方法だけを学んでいるわけでは無いのだ。「気」だったり、「流れ」だったり、「身体感覚」だったり、一般的な言語化されたものではない「何か」は、それを極めようとしている人以外にはなかなか体得出来ないものである。極めようとしている人以外に説明できないからと言ってその意味が無いとは絶対に言えない。

教師はそのようなものをなんとか言語化して、学習者に理解させる不断の努力が必要なのだ。

「見方・考え方」は、「自然に」身につくことなのか?

「漢字をたくさん書けば、その漢字を覚えられる(人もいる)」というように、習得するものとその方法が明らかな学習もあるが、そうではないのが「見方・考え方を身に付ける」ことだ。しかし、今まで通りの授業をしていけば、自然に身につくと考えるのも間違いだろう。

「自然に身につく」と考えている人は、そもそもそのセンサーが高い人で、高いからこそ教師になれている人なのではないか?自然に身につくのであれば、「全員が」身についているはずであるが、どうやらそうではない。「○○をすれば★★の力がつく」の一歩目としては、「★★の力」を具体化することなのでは無いか?つまり、目的が無ければ、目標も生まれないし、方法も生まれない。各教科で「★★の力」を身に付けられる授業デザインというものを意識することが大切だ。

もちろん、ある道を究めようとすれば、それに付帯して「人間性」などが身につく場合もあるのだが、身につかない人もいる。受験勉強ばかりをやっていて、自分の点数や偏差値ばかりを気にしていると「人間性」が身についたということは、一般論では無いだろう。

研究会の今後

現段階では「教科の見方・考え方」という教科の捉え方が必要、という切り口を広めて、たくさんの人に考えてもらうということがこの研究会の意味になっている。次の会では、もうちょっと授業の分析をみんなでしっかりやってみようか?と思っている。きっとオンラインで開催することになるから、PCのディスプレイ近くにいて、授業ビデオをがっつり全員が見られる状態である。その状況を活かさない手はない。

授業ビデオの提供をしてくれる方を大募集である。

瞽女GOZE

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高田世界館で鑑賞。この映画は高田世界館で観る意味がある。

自分にとってどんな出来でも必ず観なければならないと勝手に課している映画の種類があって、それは、「地元新潟が舞台(または撮影地)」、「虐げられていてあまり世に広まっていない人や状況を描いたものまたは世の不条理を描いたもの」、「地方単館上映が主なもの(巨大資本では無いもの)」、「映像が綺麗なもの」だ。

この映画もこれらにかなり当てはまるから、ぜひ観に行かなければと思っていた。

瞽女歌を生で2回ほど聴いたことがある。1回目は人権・「同和」教育講演会の時、2回目は新潟大学人文学部国語・国文学会に参加したとき。どちらも萱森直子さんの歌だ。萱森直子さんはこの映画の主人公小林ハルの弟子である。「瞽女」というと、なんとなくの知識はあった。その時聴いた瞽女歌は、地の底からの叫びのような太い声で歌い、聴いていて、心が震えるものだった。今回の映画では、そのような太い声の歌はあまりなかったが、鍛えられた女性の美しい声が流れ、聴いてきて心地いいものだった。役者は相当訓練したのかな?とも思った。

講演会や学会で聞いた話だと、映画に描かれてある以上にひどい仕打ちをされたということだが、映画ではそこまでは描いてはいなかった。前半では、盲目で生まれた子を1人でも生きていかせようという母親の覚悟が描かれており、後半では、師匠になった主人公の覚悟が描かれていた。当時は福祉政策など、全くない時代で、親が死ぬということは、盲目の子も死んでしまうということになる。小林ハルの家は裕福だったから、芸を身に付けられて1人でも生きていくことができたのだが、そうでは無い家庭では、子の未来はほぼ無かったと言ってもいいかもしれない。

厳しいしつけやいじめ、意地悪なども描かれているが、終始くらい映画では無く、小林ハルの朗らかさも描かれていて、あっという間の映画だった。高田世界館で映画を見た中で、一番の観客数だったかもしれない。ソーシャルディスタンス守って鑑賞しなきゃ。

天上の葦 〜文学の力〜

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「天上の葦」上下巻読了

物語(文学)は、フィクションであるが、フィクションであるからこそ与える影響というものがある。それは「人の心にダイレクトに入り込んでくる」という力だ。それは映画やマンガなどにも言えることなのだが、設定はフィクションで、もしかしたら「あり得ない」ことを描いている可能性もあるのだが、「ひょっとして、こういうことってあるのでは?」と思わせてしまうことが物語の力なのだと思う。

そして物語は作られた時代を必ず反映している。その時の流行りだったり、世の雰囲気だったり、危うい空気だったり、必ず生み出された時代の空気を感じて、捉えて、それに乗ったり、抗ったりしている。それは「売れる」ためには当たり前の仕組みである。そうだからこそ、その時代を忠実に描き出されたものだとも言える。

この数年、私は映画や小説で、国家権力による報道の弾圧が描かれた映画や小説に接している。それは、自分がそういうことに興味を持っているということもあるのだとは思うが、世に出される絶対数が多くなり、それによって私も興味関心を持って観たり読んだりしているということも言えるだろう。

「天上の葦」のキーワードとして、「小さな火のうちは消せるが、大きくなると戦えない」というものがあった。この2020年の日本はまだ「小さな火」のうちなのだろうか?そうであってほしいからこそ、そういう物語が「まだ」世に出ているのだと思いたい。そうでなくなると、「週刊誌」でさえも、報じられなくなる。NHKを初めとする大きなメディアへの弾圧は、現政権では当たり前のようになされているのが現実だと、私のようなメディア論素人でもわかる。

それに対する危機感から「天上の葦」は生まれたといってもいい。

ミステリーであり、現代小説であり、探偵シリーズでもあるエンターテインメントなんのだが、社会派の読み応えのある小説だった。このシリーズはまだ映像化されていないのだが、主人公の鑓水は、個人的には物語シリーズの「忍野メメ」だな、と思いながら読んでいた。

I have a dream で英語の見方・考え方を学ぶ授業


I Have a Dream speech by Martin Luther King .Jr HD (subtitled) (remastered)

今日は「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」という授業の最終日だった。最終日は岩折君が担当する英語の見方・考え方を学ぶ授業デザインを考えた。

キング牧師のスピーチは、中学3年生の教科書によく載っている。平易な英語で、辞書があれば、中学3年生であれば日本語訳はできる文章だ。だからこそ、訳ができたら終わりではない英語の授業ができると思う。

授業のねらい

キング牧師のスピーチ「I have a dream」は、英語素人の私が聞いてもとっても「かっこいい」。今の言葉だったら「クール」と言う方が当てはまるのだろう。どうしてそれがそうなっているのかを読み取り、単純な日本語訳とどう違うかを比較し、英語の「枠」、日本語の「枠」の「違い」を捉えてみようというのがねらいだ。言語の枠の違いを捉えられると、見方の違いを捉えることができる。

原文と直訳

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
I have a dream today!

Google翻訳

私は、4人の小さな子供が、肌の色ではなく性格によって判断される国に、いつかは住んでいるという夢があります。
今日は夢があります!

Google翻訳は明らかに「もっさり」している。これは何から来るのか?どのように翻訳を修正すれば、クールな日本語になるのか?それを課題にするだけでも、面白い授業になりそうだ。

I have a dream

原文は「I have a dream」が最初に来ている。「わたしには夢がある」。翻訳では最後に来てしまっている。倒置法を使って「私には夢がある。」として、その後に夢の無いようを述べたとしても、日本語としていけ好かないものにはならない。Google翻訳ではそこができていない。Google翻訳は倒置法を使うようにはできていないからだ。キング牧師スピーチも「dream」を最初の方に持って来て、最後にも「I have a dream today!」で締めるという形式を取っていて、その構成を何度も使うという形にしている。まるで詩のようだ。

英語の文型を変えて、「…………is my dream.」という文章を作ることもできる。しかし、それはしなかった。上記の文型を作るためだと思うし、倒置法という「技」を使わなくてもそれが出来る英語文法(トピックを最初に持ってこられる)というところに英語の見方・考え方が含まれているのだろう。

どうしてその語を使っているのか?

「nation」は「国」、「judged」は「判断」だが、「country」や「decision」を使っていないというところに着目して、日本語と英語のそれぞれの意味範囲を考えることができる。例えば日本で「国」と使ったときは、何を指すのか?現代だったら「政府」の意味合いが強いのかな?とも思う。

国境線のない日本と、国境線がある他の国でも「国」という意味合いの語の指す範囲は違っていたりするだろう。キング牧師スピーチでは「nation」を使った。何を指しているのか?というところで気づくことがある。

they や their

「my four little children」を指している「they」や「their」だが、英語だと「いちいち」書かれている日本語訳において、「彼ら」や「彼らの」といちいち訳すと日本語らしくなくなるし、「クール」とはほど遠い訳になってしまう。なぜ英語は「they」や「their」を使わねばならないのか、使わないとどんな英語になるのか。そこのところは英語素人の我々にはわからないので伝えることができないのだが、英語専門の英語の先生は、その「使わないときの違和感」を上手に伝えてほしい。

「そういう文法だから」、「決まっているから」というのでは、「英語の見方・考え方」とはほど遠いものになってしまうだろう。英語が暗記科目になってしまうだろう。「こういう文構造だから、こういう意識が生まれてくる」というようなものを知りたい。

little

Google翻訳では、「little」を「小さな」と訳している。英語初心者(古典初心者も)だと、辞書を引き、見出しの一番初めに来る語の意味を訳に当てるというのがよくあることだ。はて、「little」は「小さな」でいいのだろうか?むしろ「愛しい」とか、「可愛い」という訳を当てた方がこの文章では適切なのではないか?という試行錯誤もできるスピーチだ。「愛しい子どもたちが将来、肌の色で判別されない」という訳の方が自分の子どもたちを大切に思っている気持ちが伝わり、「dream」が大きい、大切なものということが伝わってくる。

関係代名詞、関係副詞

「that」、「where」が使われて、現代の日本語にあまりはない「後ろから」説明している文体となっている。なぜ短い1文の中に多用しているのか?日本語母語者としては、内容把握がしにくいのだが、
1)英語では関係代名詞等を使って後ろから説明するのが「当たり前」の文体である。
2)キング牧師が意図的にそのように使っている
と考えられる。

2)だったとして、考えてみると、キング牧師は「I have a dream」の後と、「that my four little children」の後で長いポーズを入れている。

I have a dream //that my four little children // will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.// I have a dream today!

そして「that」から一気呵成に話している。「my four little children」に着目させて、愛すべき可愛い自分の子どもたちの「未来」に向けての「dream」だということをアピールしているのではないか?とも思える。

not-but構文

今回の授業で、最も大きな発見は、この「not-but構文」だった。「not A but B」で「AではなくBだ」ということなのだが、私はこのような英語独特の言い回したがとてもクールに感じる。かっこいいなぁと思う。日本語でこんな感じでクールにいう言い回しはないかな?と思う。

not be judged by the color of their skin but by the content of their character

は、Google翻訳では、

肌の色ではなく性格によって判断される

となるのだが、「ではなく」というのがなんだかもっさりと感じてしまう。「肌の色」—「ではなく」という繋がりに対して、「正確によって」—ナシ というように、対応していないところもリズム感を感じられないからだろうか?

それは別として、発見はというと、「not」の後に「be judged」があるのに、「but」の後に「be judged」がないということだ。付けてもいいのかもしれないが、回りくどいから省略したのだろうか?そうだったら、

be judged not by the color of their skin but by the content of their character

というように、「not」と「but」が「by」の前に来るようにした方が、すっきり綺麗に思える。

これは、わざと「be judged」の前に「not」を置くことで、「be judged」も否定するようにしたのではないか?と思える。「判断」、「班別」、「差別」されること自体を否定しているのでは?という推測が立った。

だから、先の翻訳では、真意が全く伝わっていず、

肌の色で差別されず、人柄を認められる

とする方がいいのではないか?という発見だった。

英語の見方・考え方

Googleに頼ることだけではなく、機械的に辞書の意味を当てはめて穴埋めをしていくような機械的な翻訳では、わからないことはたくさんあった。以上の学びをくり返すことで、英語の見方・考え方がだんだん分かってくるのかな?とも思えてきた。

究極的には「原文」そのままを読み取れるのが、発信者の意図に一番近い形で受け取れる唯一の手段なんだと思う。これは古典にも言えることだ。

かわら亭

いよいよ新潟も梅雨が明け、30℃を超すようになった。暑いときに熱いサウナに入ることで、夏を乗り越えなければならない。ということで、猛暑の中行ってきた。

案外人が多く感じるのは、世の中は夏休みに入ったからだろうか?大学生っぽい人もいる。この2人がぺちゃくちゃ喋って、困ったものだった。風呂場では感染は起こらないと思っているのだろうか?実際どうなのだろう?水風呂には入っているのだが、サウナに入ってこなかったので、難を逃れている。

暑い中でも外気浴はとても気持ちいい。寒暖計をみると本当に30℃を指していた。しかし、水風呂の後の外気浴ではとても涼しく感じた。

しかし、かわら亭も夏休み期間中は行くのを遠慮しておこうかな?もうちょっと落ち着いてからゆっくり静かに入ることにしよう。といっても、他に行くサウナがないのだけれど。

今日のととのい度→3 ☆☆☆★★

文化学園長野中学高等学校訪問

総合的な探究の時間でSDGsについて各グループで探究し、発表しているということだったので、文化学園長野中学高等学校を訪問した。発表してくれたのは現高校2年生の生徒たち。1年生の時におこなった探究を今回我々に特別に発表してくれた。

私の木曜1限「中学校高等学校国語科授業づくり演習」に毎週学校から両角先生がオンラインで参加してくれている。お近づきになったし、片桐ゼミの岩折君が「国語でSDGs」をテーマに研究しているから、高校にSDGsを取り入れて、先進的な取り組みをしているので、勉強をしに行くことにした。

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前半は、6チームの取り組みの発表だ。本やネットで調べるだけではなく、児童相談所子ども食堂に直接足を運んで調査する姿が素晴らしい。2次情報だけでまとめるのではなく、足を運んで汗を流して1次情報を取得している姿は、忘れてはいけないことだ。足を運ぶことで、そこで感じた肌感覚も、とても大切なデータとなる。

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後半は、椅子を円形にして、我々も一緒に座談会っぽいふりかえりと、今年の探究内容の抱負だ。我々も感想、質問、アドバイスを伝えた。

岩折君がこの会に間に合わせて作った「国語授業でSDGs」のプリントを配布して、それぞれのゴールについて意見をもらった。自分たちが担当したゴールについて感想を言ってもらった。「国語授業でSDGs」は、SDGs達成のために、国語の授業で具体的にどんな取り組みができるか?というものだ。探究の時間でも、平時の国語の授業でもSDGsを達成しようと思わなければ、達成できるはずがない、という思いから、今後研究を進めていく。
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午後は、出前講座として、教師を志している生徒さん達に参加してもらって、進路講話を行った。45分は、私が用意してきた「上越教育大学に入ると、こんなに学べるよ」ということと、「教師になるために今後どのような心構えで学校生活を送るべきか」という話した。AIと棲み分けしていくためには、主体的・対話的で深い学びで「最適解と納得解」を得られる力を付ける(子どもに付けさせる)しかないと言う話だった。

その後の45分は、院生さん3名と参加生徒さんとの交流会みたいな感じになった。「教師はブラックですか?」とか、「集中力が続かないんです。」とか、「よく勉強を仲間に教えるのだけれど、うまく教えられないときがある。」というような質問が出た。高校生の質問は、予想しないようなものが多く、とても面白い。それに対して、一生懸命答えようとするから、こちらも勉強になる。
あっという間の90分だった。

両角先生とは、今後の連携についても話し合った。総合的な探究の時間の授業の時に、オンラインでこちらと繋いで、研究のアドバイスや、発表練習なんかができれば楽しいだろうなぁというように、連携の妄想が膨らんできた。

高速道路を使って1時間強で長野市に行くことができる。考えてみれば、とても近い。益々連携を進めて行きたい。

味噌汁作りで理科の4領域を学習する


20200721「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」味噌汁作成
「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では、味噌汁を作った。(院生の高橋さん担当)

理科と家庭科の目標

理科の4領域は、「エネルギー」、「粒子」、「生命」、「地球」なのだが、理科の「見方・考え方」とは何か?を考える時間に、教科書で、それぞれ領域別の事象を学んだとしても、教科書に書かれてあることが、普段の生活から離れすぎているので、イメージが付きにくい。じゃあ、日常生活の中の活動を理科の見方・考え方で分析することで、理科の目標を達成できるのでは?理科の目標は「科学的に探求する技能、力、態度を身に付ける」だが、「科学的に探求する力」は、他の教科では身につかないのか?例えば家庭科、ということで、理科と家庭科の違いを考えてみた。

家庭科の目標は「科学的に探求する力」を養うことではない。よりよい生活を送れるようになることだ。おいしい味噌汁を作るために、科学的に探求する力が必要になり、そこで理科の目標を達成する手段にもなるのでは?と思い、味噌汁を作った。

今回の授業は味噌汁を作る過程で、気づいたことを書きとめ、それをどうやったら検証できるのか?ということを考える授業となった。

エネルギー

ガスコンロに火を付ける。これだけで「エネルギー」の領域を学べる。火の色を見る。オレンジだったり青だったり。色の違いは温度の違い(らしい)。本当にそうなのか?はどうやって検証すればいいのだろう?

火のエネルギーが鍋に伝わり、やがて鍋の中の水に伝わる。本当にそうなのか?はどうやって検証するのか?

鍋の中の水の水面から湯気が立つ。湯気って何だ?どうして湯気って生まれるのか?まだ沸騰していないのに、どうして蒸気が出ているのか?と疑問に感じるのだが、わからないまま味噌汁作りは進む。ここになると「粒子」の領域なのかもしれない。

味噌汁作りが終わって、食した後、今回は火で料理したが、エネルギーといえば、電気での調理というのはあるのだろうか?という疑問が出た。電磁調理器や電子レンジ、ということではなく、通電することで料理を作ることはできるのか?という考えた。調べてみたら、肉に電気を流して作ったり、通電してパンを作るということが試みられているそうだ。電子レンジでの調理と何が違うんだろう?わからない。

粒子

鍋の底に空気の粒がくっついている。これは水の中に溶けている空気だと言う人もあれば、私は蒸発した水蒸気ではないか?とも思った。鍋の底が一番熱いのだから、そこに接している水が蒸発するのでは?と考えたのだが、実際どうなのだろう?水の中に溶けていた空気がでてくるのであれば、鍋の底からじゃなくてもいいだろう。本当に水の中に空気は溶けているのか?この検証がわからない。

顆粒出汁を入れると溶ける。「溶ける」って何だ?細かい粒子がまんべんなく水の中に行き渡ることと、溶けることは違うのか?本当に「溶ける」というのは、「見えなくなり透き通る」というのだが、顆粒が細かく粉砕されれば見えなくなる。それと「溶ける」は違うのだろうか?どんどんわからなくなってくる。化学的な変化を起こし、顆粒じゃなくなったら「溶ける」なのだろうか?

乾燥具材を入れると具材が鍋の中を躍る。上がって下がる。これで「対流」が見えるようになる。どうして上がる箇所と下がる箇所に分かれるのか?どうしてそれが決まるのか?「カオス」なのだろうか?何で対流するのか?温められて膨張して軽くなったから?本当に?

具材はフリーズドライされたものだったが、どうやったらフリーズドライになるのか?ということにもちょっと考えをめぐらせたが、よくわからなかった。

生命

今回はあまりそのことについて考えをめぐらすことはなかった。味噌は何からどうやってできているのか?ワカメはどうやって成長するのか?食べた具材は我々の体の中でどのように消化され、我々は生きていくのか?ということに考えをめぐらせることができただろう。

料理を食べるということは、生命を摂取することだから、結びつきはとても強いのだろう。

地球

調理中この領域について考えることがほとんど出来なかった。この実践後、授業検討で、高地で料理をするとなると、どうなるか?とか、宇宙という無重力状態で料理をしたら?とか、想像で補うことしかできなかった。

例えば使用した「水」に着目すると、「地球」の領域にふれることができたかもしれない。水はどこから来たのか?ということだ。そうなると、コンロの「ガス」はどこから来たのか?ということも「地球」領域に触れられる。

終わりに

理科に限らず、ほとんどの教科について言えることなのだが、教科書は体系的に分野や領域が綺麗に分かれていて、その分野、領域ごとに学習する。しかし、我々の生活はその分野、領域に分かれていず、渾沌としたカオス状態なのだ。そのカオス状態を今まで学んだ分野、領域で切り分けることで見えてくることがある。これこそが「科学的な見方・考え方」なのだろう。この経験を積むことでその見方・考え方が身につく。

初めから切り分けているものを分け与えていたって、切り分ける力は身につかない。と感じた。教科書を学ぶことはとても効率よく分野を学ぶことができるのだが、その学んだ力を活かすには、日常生活という渾沌としたものを分析する経験をする必要があると感じた。