Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

「ミエリン化」の前に

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新井高等学校の1年生対象に進路講話をしてきた。出前講座として申し込んできてくれたのだが、こういう機会でも無いと、高校生に対して話すことがめっきり無くなってしまったので貴重な機会である。

こんな話もした。

「ミエリン化」というのは、脳科学の用語だ。ミエリン化すると思春期が終わると言われている。ミエリン化すると以下のことが起こる。

  • 「思春期の終焉」(30歳前後)
  • 「物わかり」がよくなる
  • 冒険しなくなる
  • 何でも分かった気になる
  • ルーティン化して発見が無くなる
  • 「気づき」が無くなる

年を取ってしまうと新たなアイディアが全然出なくなるということだ。私は完全にミエリン化しているというのがよく分かった。思春期は、ミエリン化していないから、傍若無人な態度を取るし、とても危険な、命を省みない行動も取る。しかしその裏腹として誰も思いつかない発想をするし、イノベーションも起こすことが出来る。

坂本龍馬は28歳で土佐藩を脱藩し、スティーブ・ジョブズは21歳でアップルコンピュータを立ち上げた。一番右の写真を高校生に見せたら「誰か分からない」と答える生徒が多かった。ミエリン化している我々が誰でも知っている、志村けんは26歳で東村山音頭を発表した。

今まで誰もしたことが無いようなことをするのは、ミエリン化していない世代が多い。

だから、高1の次男も、ミエリン化していないから、親たちを困らせているのか、と、思うと少しは気持ちが楽になる。

令和2年度学修成果発表会

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片桐研究室の2名が今年修了で、発表をした。今年はオンラインで行うことになってしまったのが残念である。コロナ禍の影響というよりも、雪害により登校不安があったからだ。

2人とも堂々と発表し、副査からの質問にもテキパキと答えて、成長の度合いが伺えた。

オンラインだと、発表前、発表後の雰囲気を受けとることが出来ず、見守る私としては、緊張感が感染しないので、それはそれでいいのだが、やっぱりその雰囲気は共有したいと思ってしまう。発表が終われば「はい、それまでよ。」となってしまう。オンラインの不便さを切に感じた。

発表会が終わったとしても、まだまだあと2カ月くらい残っている。そこで現場教員になる前の準備を十分にしてほしいと思う。現場で働くと、実践、実践の毎日だから、大学に籍を置いているうちは、理念を積み重ねて言って欲しいと思います。いわゆる「現場で活きる新たな視点の創出」だ。意味を自分で見つけてほしい。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方 ♭

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プリント学習

授業プリントを使い、授業を行うと、とても楽だ。その授業時間に取り組む内容が一覧になっているので、めどが付けやすいというメリットがある。これは授業者にとっても学習者にとってもメリットになる。学習者は、授業者の頭の中にある、「いったい、次は何を問われるのか?」という不安から解放され、目の前のプリントに取り組むだけでよくなる。その時間の目標が提示されない時の学習者の負担感を感じていない教員は多い。その時間の目標、その単元の目標を一切提示しない高校教師の多さからも伺える。

教師にとっても事前にその授業の流れを作っていくことで、脱線することを免れる。授業に取り組んでいるかどうかの判断をプリントをやっているかどうかで見とることが出来るのでとても楽なのだ。導入、展開、発展がその1枚のプリントに示されていれば、どこまで進んだか一目瞭然だ。

学習者は、もう分かっていること、分からないことがはっきりするし、教師のいらぬこだわりや、他の学習者との無駄なやりとりなんかを無視して、プリントを書いていくことで、その授業時間頭を働かせることができる。つまり、教師のペースに乗らないで、自分のペースで学習を進めることができる。これが意欲的な学習者にとって最もよいことだと思う。

プリント学習の弊害

とはいっても、弊害はある。往々にして国語において作られたプリントは以下のような弊害を持つ。

知識補填のプリント

一問一答式で、問いに対する答えが1つしか無いもの。知識を問うもの。教科書から抜き出すもの。それだけで構成されているプリントは、意欲的な学習者にとっては、どんどん自分で進めていくことができるが、意欲的では無い学習者は、「結局、答えは後から示されるのだから、その時に写せばいいや」ということが分かっている。

決まった答えを導き出す時に使われる頭の働きが重要なのだが、その頭の働きの重要性や面白さを教師が語らないで、正解という結果だけを重視する。

あだちがはらさん、空欄Aにはなんて書いた?
はい。猿と書きました。
え?猿?そうじゃなくて、他に考えられるでしょう?
じゃあ、鳥
うーんと、惜しい。

そうですね。猪ですね。

なんていうやりとりをよく見てきた。これって、「答え」を「当て」る授業だよね。あだちがはらさんに答えさせる国語授業的意味はあるのだろうか?

ストーリーが決まっているプリント

知識を問うものではなく、考え方を問うプリントも国語授業では作られる。例えば、論理的思考を学ぶ授業で、

  1. この時ヒグマが見つけたものは何か?
  2. ヒグマはそれを見つけてどのような考えを持ったか?
  3. ヒグマのその考えはどのような情景描写で描かれているか?
  4. その情景描写はエゾシカにどのように影響しているか?
  5. エゾシカは何を象徴しているか?

と、自由に考えられるように作られているように見えて、順を追ったストーリーを作っていかなければならない。しかも、そのストーリーは、教師が作品から得られたストーリーであって、そんなストーリーを学習者が追えるのかというと、そういうわけではない。着目点は人それぞれ違っているのであって、教師が得た着目点が絶対ということでは無い。しかしそれを押しつけたら、自由な発想は生まれない。

なぜこうなる?

「国語は決まった答えが無いから嫌だ」という大昔からの子どもたちの意見に答えるために、「ある条件を課せば、国語だって1つの答えに集約されるんだよ。」と言って、テスト問題を作る。テストが全てだと思っている(思わされている、思わなければいけない)国語教師にとって、「決まった答え」信奉が、こんなプリントを作らせている。何でこんな授業なの?何でこんなプリントを作るの?と尋ねたら、「テストで何を勉強していいか分からない」という生徒の意見に答えるためと返答する。

じゃあ、その答えが書かれてあるプリントを始めに配っちゃえばいいんじゃない?

と、言うと、きょとんとされる「じゃあ、授業では何をすればいいのか?」と言うことなんだろう。

知識伝達、空欄補充ではない国語授業とは

調べれば分かる知識、教師が小出しにして、最後に提供する「答え」を全て材料にして、何を学べるのか?を授業の目標にすべきである。知識伝達の授業は100年前から行われているのに、未だ日本の授業は変わらない。ネットで調べればすぐに分かる「答え」を時間かけてプリントに書いたらどんな学びが生まれるのか?今の多くの学校では、ネットで調べりゃすぐに分かることを、調べる手段に制限をかけて、無理矢理その情報に届かないようにして、時間をかけさせて紙に書かせている。

なぜネットに繋がる携帯端末を授業で使うことを禁止しているのだろう?すぐに答えが分かることって悪なのか?子どもたちはそんな「まやかし」にもう気づいている。いや、気づかせないようにしているから、「ネットは匿名で簡単に他人を傷つける便利なツールだ」としか思わないと教師が思っているから、使わせないのだろうか?高校卒業したら、ネットを駆使して簡単に情報に行き着き、そしてそこからクリエイトしていかなければいけないのに、ネット検索コピペ止まりのレポートしか生まれないのかもしれない。

情報を組み合わせる

共通テストの国語問題、私が数年前、「試行」として作られた問題を解いたことがあったが、結局その時の目新しさからかけ離れ、よくある問題に落ち着いていた。主になるテキストがあり、そのテキストに関連した別のテキストが提示され、解くというもの。「試行」の問題は、あまり関連性がないと思われるような情報を組み合わせて書いていく問題だった。あれには衝撃を受けたが、いろんな「文句」が出て、結局高校入試でよくあるパターンの問題になったのだろう。はっきり言ってがっかりだった。

どんなものでも出題者の意図が反映しているもので、出題者のストーリーで解いていかないといい点数は取れない。しかし、ほんとうにそれが「国語」だろうか?目の前にあるテキストから読み取った情報や、自分の経験上の情報、感覚をこねくり回して解釈するのが国語であってほしい。誰かのストーリーに自分の思考手順を当てはめて1つの予定調和な「答え」を紙に書くのを「国語」だなんて思ってほしくない。

私が今までに作った最高の定期テスト問題は、「1年間の国語の授業で「生きるために役に立つ」と学んだことを2,000字以内で書きなさい。」だと、今でも思っている。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方

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教員養成大学の教員なので、学生や院生の模擬授業、現役の先生の公開授業を観ることが多い。国語の授業を観ていると、「え?これ、国語なの?」と思ってしまう。国語教科書の内容を扱っているのだから、国語だと考えてしまうのだろうけれど、その授業を行うことで、どんな力がつくのかを意識出来ていない場合が多い。

国語授業とは?

目標や課題の種類を大きく分けると、2つある。1つはテキストそのものを読むもの、もう1つは言語活動をおこなうものだ。教科書作品の内容理解は「テキストそのものを読むもの」であり、話し合い活動、感想を述べる、作品を作り替える、小論文を書く、というように、言語を駆使して表現力を磨くのが「言語活動」である。

全ての教科で「言語活動」を導入しなければならないのだが、言語活動の力を付けることを目標にしているのは国語だけである。他の教科において、言語活動は手段であるが、国語にとっては、手段であり目標でもある。

冴えない授業デザイン(国語)の作り方

とは、この2つの目標をごっちゃにすると簡単に作れる。

例えば、詩を取り扱ったとして、「この詩は四季の移り変わりの美しさを描いているが、皆さんが感じる四季の美しさを絵に描いて周りの人に説明しよう。」という課題を考える。そしてその詩を学んだと勘違いしてしまう。

教材として選んだ詩をざっくり読んで、その詩のテキストから離れた課題を設定し、言語活動をさせ、その詩を扱ったと授業者が勘違いしてしまうのだ。こういう国語の授業をさんざん見てきた。テキストも読まず、話し合って、伝え合って終わりにする。内容理解も言語活動もどっちつかずで何を学んだか分からないという冴えない授業が行われる。

話し合って終わり

話し合って、伝え合って終わりだったらコミュニケーション力の授業であり、もちろん国語はコミュニケーション力を付ける教科でもあるので、そっちにフォーカスすればよい。究極にいえば、教材はその詩ではなくてもよいということになる。さらにコミュニケーション力を付ける目標だったら、どうなればコミュニケーション力がついたのかという評価基準も設定されていない。授業者はコミュニケーション力を付ける授業に設定していないからだ。

模擬授業の場合は、時間が限られているので、目標をテキストの読み取りにするのか、言語活動にするのか、どっちかにすればいいのに、と思うのだが、その違いを理解していないので、このようなことが起こる。現場の実際の授業の場合も、言語活動だけをやらせただけで、テキストを読み取った授業だと勘違いしている場合がある。

じゃあどうするの?は、次回。

みどり湯

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2021年度新規サウナ開拓1件目

うちのマンションから一番近い銭湯が「みどり湯」だ。マンションには内風呂があるため、行ったことはなかったのだが、大雪で遠くのサウナに車でいって、渋滞になったら嫌だし、夕方行って、温まって、その後すぐに一杯やれば天国だろうな、と思って、歩いて行った。

普通の銭湯なので、いろいろ考えた。鍵がかかるロッカーは無いから、お金は持っていかない方がいい。「湯快券」をもらえば、440円が320円になるというので、申込書をダウンロードして、記入し、健康保険証も必要というので、500円と健康保険証だけを持って行った。

平日休みだったので、4時前に行ってみた。思いの外混んでいた。お年寄りが一番風呂をもらいに来ているのだろう、と思うのだが、背中に完璧な彫り物をしている人もいたし、腕に部分的に彫り物をしている人もいた。そうか、夜の仕事の前に風呂に入っていくという人も多いのか、と思った。完璧な彫り物をしている人に、後から来る人はどんどん挨拶をしていく。うーん、この時間帯はその筋の人がよく使うのか、と勉強になった。そういえば、上越市の公共の温浴施設で、早めに行ったら、サウナの中に入っている人たちは、そんな人だらけだったことがあったな。

シャワーが固定でちょっと使いにくい。隅の方に立って浴びられるシャワーはあるのだが、そこで体を洗うわけにはいかないので、本当に久しぶりにカランと桶で泡を流した。カランから大量に出る熱湯が懐かしい。銭湯は、高校時代合宿で行って以来だから、40年以上ぶりなんだろう。お湯は44℃を指していて、めちゃくちゃ熱かったが、自分にとってはそれが気持ちよかった。じじいか江戸っ子の仲間入りだ。

サウナはスチームサウナで、常時蒸気が噴出している。頭は熱く、足は冷たく感じた。温度計は75℃くらいをさしていた。くわどりゆったり村ほどの熱さでもない。じっくり入っていると汗は出てくるが、狭いので、長湯も出来ない。その筋の人が冷水をセンサーにかけていた。それをかけることによって蒸気が出てくる。蒸気が止まると途端に冷えてくる感じなので、ありがたかった。

水風呂も無く、休憩場所も無い。ととのうことは一切なかった。2回ほどサウナに入って、後はバブルバスに横たわったり、熱い風呂に半身浴をしていた。とにかく体が温まったことは確実だ。

今日のととのい度→1 ☆★★★★

年末年始、雪害で引きこもったときにビデオで観た映画

1917

Amazon Prime Video視聴(2019年 イギリス・アメリカ合作)
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コロナ禍で第1波自粛期間ちょっと前に映画館にかけられていたのだが、観に行けず、気になってはいたが、年末に思いの外早くAmazon Prime Videoで観られた。きっと日本の映画館では、コロナ禍で収益をあまり上げられなかったから、Amazon Prime Videoで観られるようになったのだろう。

1カット映画で、時間が視聴の時間と同じで進んで行く。とは言っても、途中主人公が気を失ったりしているので、数カットはあるんだけれど。それにしてもいい映画だった。生きている人間と死んだ人間はほんのちょっとの差でしかない。弾薬で泥沼化された大地と、まだ攻撃されていない美しい草原、森林の対比が上手に描かれている。生と死はほんの紙一重で、主人公が川に落ち、流されていき、流れ着いたところは淀みに死体がただよっており、それらに捕まって上陸し、生を勝ち取る。死というものが日常化している戦場をうまく描いていた。

撮影方法は全く調べていないから、どうやって撮ったのかわからないのだが、あんな大がかりな戦場を本当に1カットで撮れたとは思えないが、継ぎ目が分からない撮影、編集のやり方だった。

ねらわれた学園

BS11視聴(2012年 日本 アニメ制作:サンライズ
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雪害で引きこもらざるを得ず、昔に録画したものを観ていた。大林宣彦監督の薬師丸ひろ子主演映画(1981年)も観たことがあったのだが、ほとんど内容を忘れていた。現代にリメイクされていて、学園の問題として、「携帯電話の持ち込み禁止」というものになっていた。ちょっとこの設定は無理があったとは思う。たかが携帯電話でここまで生徒会が強権的になる必要は無いし、異能を使って1つの学校に圧力をかけてもしょうがない。

しかし、絵が綺麗であったので、それだけで最後まで観ることができた。サンライズ、ロボットアニメだけでは無く、こういうアニメも作っているんだなぁ。

メメント

Amazon Prime Video視聴(2000年 アメリカ)
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クリストファー・ノーラン監督映画。「TENET」が上映されたから、Amazon Prime Videoでも観られるようになっていたのだろう。気になっていた映画だったが、以前は無料視聴ではなかった。「TENET」、「インセプション」と観て、これはどうかな?と期待して見たが、期待を超える面白さだった。3つのうちこれが一番好きだ。ある意味ミステリーを編集技術によって創り出しているとも言えるのだが、それでも、「そうだったのか!」と驚く結末だった。

記憶が一定時間しか続かない男が主人公で、約15分前の事を覚えていない。その自覚があるから体中に覚えておくべきことを入れ墨し、細かいことはポラロイド写真に撮り、メモを残す。観ている人は、すっかり主人公に感情移入していく。周りの人の言うことは正しいのか、写真のメモは正しいのか、入れ墨は正しいのか、どんどんと分からなくなる。「メメント」を同時進行した構成が「TENET」なのかと分かった。

クリストファー・ノーラン監督は、小説を結末から読んでいくという趣味を持っているらしい。それを映像化させたのがこの映画なんだろう。

冴えない彼女の育てかた Fine

レンタルDVD視聴(2020年 日本 アニメ制作:CloverWorks)
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テレビシリーズはAmazon Prime Videoと本放送で追っていた。そして、完結編としての映画だ。アニメ業回はこういうことをよくする。テレビシリーズで引っ張っていって、映画で完結させて、興行収入を得ようというパターンなのだろう。映画を上映しているときには見る機会を逸して、DVD化して楽しみにしていたのだが、貸し出し中でなかなか借りられなかった。ようやくレンタル出来たので観てみたのだが、え?何?という感じだった。

倫也がどうして眼鏡をしていないの?いつから目がよくなった?いや、コンタクトにした?そこからしてもう違っていた。何で映画化することで、設定を変えちゃうんだろう?キャラもどうも変化している。加藤だってもっと面倒くさいヤツだったぞ。テレビ第2シリーズの終わりなんて、面倒くさいまま終わっていたのに、映画化されてどうしてここまで変えちゃうんだろう?

こういうパターンで上映するアニメで、同じように「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」もがっかりだった。どうしてこうなった?がっかり感でこのシリーズを終えなきゃいけないのかぁと思ってしまう。「メイドインアビス」は、そうでもなかった(とはいっても、シリーズ完結していないけれど)。映画化完結版には気をつけろ。

サカサマのパテマ

BS11視聴(2013年 日本 アニメ制作:スタジオ・リッカ)
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全くの前情報が無く観ていたのだが、面白かった。引きつけられた。重力が正反対に働く2つの世界の男女が出会う。どちらが正常で、どちらが逆さまなのか、感覚がどんどんわからなくなっていくという今までに経験したことの無い感覚だった。「上に落ちる」という表現が物語っている。そして、この世界とあっちの世界、どっちが「正当」なのかも、見方によってコロコロ変わっていく。こっちの世界の地面だと思っていたのが、実は空だったり、感覚を揺さぶられた。

2つの世界の共生というカタルシスという結末とともに、新発見もあり、観てて爽快な映画だった。いやぁ、BS11のアニメ劇場、チェックを忘れてはいけない。掘り出し物を放送してくれる。

学校は「勝ち負け」を付けないでいられるところなのか?

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「お笑い」というのは、いつの間にか「勝負事」となってしまっていた。ちょっと前まで「お笑い」は社会や世間からドロップアウトした人が担っていた。「まっとうな学校」、「まっとうな会社」に通えない人が「世間とずれた視点」を提示することにより、「笑い」を引き起こしていた。昔、関西では「そんなんじゃ、吉本にしか入れないぞ」という言葉は、卑称でしか無かったが、今は反対の意味となっている。

さて、吉本が高校を作るというのだが、きっと賞レースに特化して行くんだろう。「お笑い」=「勝ち負け」という図式で生徒たちを鼓舞するんだろうな。でも、勝ち負けのお笑いって面白いんだろうか?お笑いってそれだけじゃない気がする。

伊集院光とラジオと」にゲストでニューヨークが出ていて、先日出たテレビの東西寄せで一緒になった、今でも現役のベテランの漫才は、全くスタンダードから外れた独自の漫才ばかりだった、と言っていた。その漫才コンビしかやっていないから、今でも残っているんだろう、と言っていた。今や、M1に出る人は、M1でいかに勝てるかばかりを考えてネタを作っているそうだ。以前、「エンタの神様」が一世を風靡したときには、1〜2分のネタで受けるお笑いばかりが出ていて、数分のネタでは本領を発揮出来ないお笑いは淘汰されていったそうな。

吉本の高校では、賞レースの理論化された「傾向と対策」をたたき込まれて、それを反復練習してって、大学入試と同じようなことがなされるのかな?大学入試対策って「教育」なんかな?

私は「ああ生きられたらいいんだろうな」というちょっとの憧れ、「そんなバカな」という少しの蔑み、「そこまで出来ないよ」というある意味の尊敬を持てるお笑いが好きだ。「いだてん」で描かれた古今亭志ん生のような感じ。今でもそういうお笑いの人はたくさんいる。しかし、傾向と対策が練られた、チャート式をたどったようなお笑いには魅力は感じない。

本来教育なんて「勝ち負け」、「順位付け」にはなじまず、各人が各人の土俵に上がっていればいいわけで、その土俵には自分しかいないから誰とも戦わなくていい。そんなのが理想なのだが、「現実は違うよ」という人がたくさんいるのはわかっている。じゃあ、現実変えようとしなきゃ、「現実は違うよ」と言う人の土俵で戦わなければならなくなる。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」のある登場人物が「降りるために昇るんさ」と言って、それがキーワードとなって物語が進んで行ったが、土俵から降りるというのも、一つの生き方であり、摩耗しない生き方だ。土俵から降りられないでもがいて病気になったり過労死したりするのが今の日本だ。「降りる」ということも学校で伝えていかなければならないと思う。

浦沢直樹「20世紀少年」で、戦いに行くとき、主人公が仲間に「命が危なくなったら、逃げてくれ」と言う場面があった。とても印象に残っている。普通、こういう悪に立ち向かう場面では「命をなげうってでもみんなのために戦おう」なのだが、そうではない。最近になって「逃げるは恥だが役に立つ」という番組も現れた。

学校って、「生き方」を学ぶところであってほしい。その人の「生き方」には理論化された「傾向と対策」なんて無い。学校はたくさんの人から自分に合った生き方を学べるところであってほしい。私が落語が好きなのは、数少ない「師弟関係」が存続しているお笑いだからかな?内弟子時代に理論化されていないその人の「生き方」に学んでいるんだろうと、勝手に想像する。

今年はいろんなものから降りよう。