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上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

学校は「勝ち負け」を付けないでいられるところなのか?

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「お笑い」というのは、いつの間にか「勝負事」となってしまっていた。ちょっと前まで「お笑い」は社会や世間からドロップアウトした人が担っていた。「まっとうな学校」、「まっとうな会社」に通えない人が「世間とずれた視点」を提示することにより、「笑い」を引き起こしていた。昔、関西では「そんなんじゃ、吉本にしか入れないぞ」という言葉は、卑称でしか無かったが、今は反対の意味となっている。

さて、吉本が高校を作るというのだが、きっと賞レースに特化して行くんだろう。「お笑い」=「勝ち負け」という図式で生徒たちを鼓舞するんだろうな。でも、勝ち負けのお笑いって面白いんだろうか?お笑いってそれだけじゃない気がする。

伊集院光とラジオと」にゲストでニューヨークが出ていて、先日出たテレビの東西寄せで一緒になった、今でも現役のベテランの漫才は、全くスタンダードから外れた独自の漫才ばかりだった、と言っていた。その漫才コンビしかやっていないから、今でも残っているんだろう、と言っていた。今や、M1に出る人は、M1でいかに勝てるかばかりを考えてネタを作っているそうだ。以前、「エンタの神様」が一世を風靡したときには、1〜2分のネタで受けるお笑いばかりが出ていて、数分のネタでは本領を発揮出来ないお笑いは淘汰されていったそうな。

吉本の高校では、賞レースの理論化された「傾向と対策」をたたき込まれて、それを反復練習してって、大学入試と同じようなことがなされるのかな?大学入試対策って「教育」なんかな?

私は「ああ生きられたらいいんだろうな」というちょっとの憧れ、「そんなバカな」という少しの蔑み、「そこまで出来ないよ」というある意味の尊敬を持てるお笑いが好きだ。「いだてん」で描かれた古今亭志ん生のような感じ。今でもそういうお笑いの人はたくさんいる。しかし、傾向と対策が練られた、チャート式をたどったようなお笑いには魅力は感じない。

本来教育なんて「勝ち負け」、「順位付け」にはなじまず、各人が各人の土俵に上がっていればいいわけで、その土俵には自分しかいないから誰とも戦わなくていい。そんなのが理想なのだが、「現実は違うよ」という人がたくさんいるのはわかっている。じゃあ、現実変えようとしなきゃ、「現実は違うよ」と言う人の土俵で戦わなければならなくなる。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」のある登場人物が「降りるために昇るんさ」と言って、それがキーワードとなって物語が進んで行ったが、土俵から降りるというのも、一つの生き方であり、摩耗しない生き方だ。土俵から降りられないでもがいて病気になったり過労死したりするのが今の日本だ。「降りる」ということも学校で伝えていかなければならないと思う。

浦沢直樹「20世紀少年」で、戦いに行くとき、主人公が仲間に「命が危なくなったら、逃げてくれ」と言う場面があった。とても印象に残っている。普通、こういう悪に立ち向かう場面では「命をなげうってでもみんなのために戦おう」なのだが、そうではない。最近になって「逃げるは恥だが役に立つ」という番組も現れた。

学校って、「生き方」を学ぶところであってほしい。その人の「生き方」には理論化された「傾向と対策」なんて無い。学校はたくさんの人から自分に合った生き方を学べるところであってほしい。私が落語が好きなのは、数少ない「師弟関係」が存続しているお笑いだからかな?内弟子時代に理論化されていないその人の「生き方」に学んでいるんだろうと、勝手に想像する。

今年はいろんなものから降りよう。