Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

英文法で文化を知る

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英語の大多数の先生から「何言っているの?」と言われるかも知れないが、英語の習得と他文化の理解は全くリンクしていない。英語の授業では英米文化(特にアメリカ文化)の理解に時間が割かれることが多いが、「それって、日本語で書かれているアメリカ文化についての文章を読めばいいですよね?」と思ってしまう。更に、英語で日本文化について書かれてある文章を読ませる教科書もある。これって何のために?英語の習得のためだけだったら分かるのだけれど。

そして、とりあえず、目の前の中学生が大人になる頃まで、英語の習得をしなければ食っていけなくなるということはないと思われ(楽観的?)、自動翻訳システムが今後どんどん進化すれば、英語なんて喋れなくても日常会話はもちろん、ビジネス会話さえもそれでまかなえると思われる。じゃあ、多文化理解は母国語で行い、必要な人だけ英語を学べばいいの?ということになる。

私の大学院授業「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題(今年度終了)」で先日中学英語を扱った。担当者が持って来た教科書のコピーの単元は、現在進行形「be動詞+ing」という、超基本的なものであった。その教科書には様々な写真が掲載されており、アメリカの中学生がスクールバスに乗っているものや、授業間の移動時間で、ある生徒はスポーツシューズを持っていて、ある生徒は楽器を持っている姿などが写っていた。

なぜそのような写真を掲載しているのか?教科書の意図は、「アメリカの中学校は、日本のとは違って、ほとんどの人がスクールバスで通っていて、歩いて通う日本とは違うでしょ?」とか、「アメリカのカリキュラムは、各人が必要な授業を履修して、ほとんど決められている日本の中学校とは違うでしょ?」というものなのだろう。その違いを英訳して、アメリカの学校文化を知ろう、というものだと想像できる。

しかし、程度差もあるが、中学生に選択授業はある。そして地域によっては日常的にスクールバスが運行しているところ(例:新潟の山間部の地域)はある。この写真によって「違いがあるでしょ、文化の違いでしょ?」と示すのは、無理があるる。編集者は大都市の中学校しかイメージできなかったのだろうか?

話は逸れるが、

日本語で

彼女は英語を勉強する。

という表現は、「今」勉強している姿にも使うし、「日常的に」勉強している姿にも使う。

映像作品を作って、女子生徒が英語の教科書を開いて勉強している動画にナレーションを付けるとき、「彼女は英語を勉強する」としても何ら違和感はない。そして、大人になって、仕事を持っている女性が仕事が終わった後日常的に英会話教室に通っている姿を映したナレーションに「彼女は英語を勉強している」としても違和感がない。

つまり、「する」にも「している」にも、どちらも「進行形」の意味があるし、それを取り除いた意味もある。日本語は区別を付けないのだ。

ところが、英語で

She studies English.

とした場合「日常的に」学んでいることになる。中学生で3年間学ぶのかな?と捉えられる。そして

She is studying English.

とすると、今まさに学んでいるという意味にしかならない。

教科書の写真の話に戻ると、日常的にバスで通っているのか、今日はたまたま遠足で生徒みんながバスに乗っているのかは、この「進行形」を使うか否かで言い表すことができると言うことになる。教科書編集者はそれを狙っているんだろう。

今だけのことなのか、日常的なことなのか、アメリカの「日常」を意識し、英文で書き分けることで、アメリカのカリキュラムを知り、文化を意識するということに繋がる。

つまり、英文法に現れた「英語の見方・考え方」でアメリカ文化理解をしていこうということだ。こうすることで、英語を学ぶ意味が見えてくる。

先日の授業では、新たな発見があった。

書いた文章はどのように「伝わ」ってほしいか?

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論文や、ブログやSNSなんかに私は文章を書く方だと思う。ブログは毎日は更新していないけれど、「長い文章が書けると何かいいことあるの?」という問いを院生のGちゃんに投げかけてみた。Gちゃんはそれに頑張って答えを見つけようとしている。来年度の研究テーマだ。

それは置いておいて、自分が書いた文章がどのように伝わってほしいか?ということをまとめておきたい。

 * レベル0:何が書いてあるかわからない

若い頃は、頼まれた原稿をやっつけ仕事で書き上げて提出したことがあった。それを読んだ先輩からは「何が書いてあるかわからない」と言われた。その通り、やっつけ仕事だから、読み返してもいない。私は若い頃、今から考えると不思議なのだが、点検し直す、読み返すというのが大キライだった。

学生時代定期テスト、共通テストでも、時間いっぱいやって、ちょっと時間が余ってもそれを読み返さなかった。なんだか自分で完成したと思ったものを再度点検するのが嫌だったのだ。そりゃあ、「何が書いてあるかわからない」ということになるだろう。文章作成で最悪のレベルだ。

* レベル1:意図が伝わらない

書いてあることは文法的に正しい、かかり受けも間違っていない。でも、「そういうつもりで書いたんじゃない」という文章だ。自分本位で書いているとそうなる。相手はどう捉えるか?という気持ちが無い時にこんな文章を書き、誤解を生む。

* レベル2:気持ちが伝わる

上記「レベル1」の「意図」が伝わった文章だ。普通の文章だったら、これで及第点である。書き手の意図、書き手の熱意が伝わる文章が作れれば、それでゴールだ。こんな文章をスタンダードに作成できれば、国語科教育レベルのゴールと言えるだろう。

論理的に書ければ、どんな文章でも伝わるのかというと、そういうわけではない。論理的すぎて伝わらない場合もある。「読み手」の「論理=思考回路」に合わせた文章が書ければ、客観的なものごと以上の情緒的な部分も伝わると思う。

作家はこのレベルでいいのかというと、きっとこれだけではダメで、次のレベル3まで行かないと職業作家としてやっていけないんだと思う。

* レベル3:書き手の意図していないことも伝わる

「この物語は、自分の物語だ、自分のことを描いている。何でこの人は自分のことをこんなにわかっているだろう?」と思わせる物語が最上の物語だと思う。

もちろん作家は読者の事情なんて知っているはずもない。読者は行や行間から、書いてあること以上のことを読み取れている結果だ。書き手はそんなことを意図していなくても、普遍性のある内容を書き、読者はそれを自分に当てはめて読むから、「自分の物語だ」と読み取る。

こんな文章が書ければいいのだが、私が書けていたら職業作家になっているだろう。

しかし、「文章」を「授業」に置きかえるのであれば、「職業教師」としてやれたと思えた経験は少なからずあった気がする。

学級経営(広義の)で最も心がけけておかねばならぬこと

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後期の大学院授業では、学級経営(集団づくり)も受け持っている。そこではディスカッションを中心に、あるべき学級担任の姿を掘り出すことをしている。

学級(教科)担任には当たり外れがある

学級担任制の功罪を話題にした時、若い院生さんは、「自分は学級担任を外れだと思ったことがなかったので、学級担任制を廃止しなくても良いと思っていた。」という回答があった。そう、学級担任には当たり外れがある。しかし、それは児童・生徒にとって絶対的なものではなく、そのクラスのある生徒にとっては当たりでも、ある生徒にとっては外れであるという現実がある。

問題は、学級担任を児童・生徒は選べないということなのだ。

選べればいいのか?

それじゃあ、流動学級制をしいて、一定期間後担任を選べるようにすればよいのか?ということになる。そうなると、その先生を好きな児童・生徒がそのクラスにどんどん集まることになり、その先生を支持する人たちのクラスが出来上がる。その先生が右といえば右に、左といえば左に向くようになるのではないか?という話になった。生徒たちにとって「当たり」の学級担任である。これって、いいクラスになるのだろうか?

そうなると何が起こる怖れがあるのかというと、先生の周りは自分を支持する人ばかりなので、「腐敗」が起こる。その先生に意見を言う人がいなくなる。文句を言う人がいなくなる。これって、健全な集団を作るために弊害にならないか?忖度ばかりする集団がどうなっているのかは、周知の事実である。児童・生徒にとってばかりか、先生にも成長がなくなる。

というと、一概に、「当たり(=いい先生)」に持たれたからといって、いいことは起こらないのではないか?という話になった。

様々な人と様々な機会で接することができる

いわゆる「抱え込み」が弊害をもたらす。ある先生(当たりでも、外れでも)がずーっとその生徒に接しなければならないということが弊害を生み出すのだから、それをやめればいいということになる。つまり、「ローテーション」だ。子どもたちにとって(もちろん大人たちにとっても)、ある一定期間でいろんな人と接することができるシステムを作れば良い。学校でいえば、教科担任制である。

しかし、教師は抱え込みたくなる。そのクラスの担任だとなると、「自分が全て面倒を見たいし、他から口を出されたくない」と思ってしまう。実際の所そこが問題なのだ。しかし、教科担任制が敷かれると、子どもたちは1日にいろんな先生と接することになるし、逆も然りだ。そうなると、世の中には「合う人間、合わない人間」、「信じられる人間、信じられない人間」、「きらいだけど正しいことを言う人間、好きだけれど、いい加減なことを言う人間」がいるということを体験していく。

その中で、社会に出てからの「耐性」を養うことができる。「大人のいうことは全部信じろ」、「先生のいうことは何でも従え」ということにはならなくなる。児童・生徒が取捨選択出来るし、合わない児童生徒がいた場合、どのように接していけばいいのか教師は考える。

「教職員が一丸となって」はいいこと?

「教職員が一丸となって」という指導方針が必要と言う人が多くいるが、一丸となって同じ方向に向かせようとした場合、その方向は絶対的に「正しい」と言うことができるのか?間違っている場合だってあるじゃないか?絶対的な「正しさ」というのは、「死なない、殺さない、裏切らない」程度しか無い気がする。それは教職員が一丸となって指導するべきものなんだろうけれど、他の場合は、いろんな指導があってよい。いろんな指導に触れさせることも必要だ。

最終的には児童・生徒が自分で選べる力をつける環境作りを「一丸となって」するのが良いのだと思う。

文章がうまくなりたいって思っているのかな?

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院生と「喋れるのに書けない」ということについて、そして「どうして文章を書くのを毛嫌いするのか?」について対話した。作文の課題で、なかなか書けない時に、質問をするとそれに答えられる。「じゃあ、それをそのまま書けばいいんだよ。」と伝えても書けない。喋ることと書くことの間にどのような壁があるんだろうか?

上手な文章を書きたいと思っているか?

私は、学生時代たくさん文章を読んでいたと思う。たくさん読んでいると自分に心地いい文章が自ずと見つかるので、そんな文体で書けるようになったらいいな、という憧れがある。それは筒井康隆のような、どんどんと狂気に向かって行くような文章だったり、奥の細道のような超簡潔で、行間から伝えたいことがにじみ出るような文章だったり、最近では、西尾維新のようなことば遊びとストーリーとちょっとのエロが入っている文章だったりする。

児童生徒はそんな文章への憧れというものがあるのだろうか?という話になった。このような憧れって、たくさん触れないと生まれない。たくさん文字を読まないと生まれない。文章を読む機会がどんどん減っている現代では、そういう憧れを持つ児童生徒は減ってきているのではないか?という話になった。

いや、もしかすると私の年代でも「憧れの文章」というものを持っている人って、そうそう多くはないのかもしれない。

文章教育はほかの教育に比べて欠落している何かがあるのでは?

幼児の時に、お絵かきをしていて、親など周りの大人はその絵を見ると、「おー、○○ちゃん、上手に絵が描けたね。」と褒める。それは小学校に入っても続く。同じように歌を歌ったら、どんな歌でも褒める。褒め続ける。中学ぐらいまでそういうことは続くのではないだろうか?

ところが、ことに文章になると、文章を書いたら小さい頃は褒められるのだろうけれど、だんだんと、字が汚いやら、漢字が間違っているやら、平仮名が鏡文字やら、そんなことを指摘されてしまう。しかもかなりの低年齢時から。そんなことされたら、文章を書くのが嫌いになってしまうのは必至だ。

絵を描いていて、見た目の色と絵に塗られた色が全く違っていても、「おー、個性的だね。」とか、「もしかしたら、この子はピカソの再来か?」とか、デッサンがぐにゃぐにゃでも、「もしかしたら、この子はダリの再来か?」、芸術は爆発だ!という評価がなされることが多い。

ところが文章に関してはそうではない。書いてあることが支離滅裂だったら、「この子は大丈夫なのか?」と思ってしまう。狂気じみていたら「この子は筒井康隆の再来か?(存命中)」と思うことはあまりない。どうして文章に関しては「写実的なもの」が求められるんだろう?

もちろん実用的な文章を書く場合はそういうことは、重要な要素だが、文章は自由なもので、実用的な文章だけを書いているわけではない。他の芸術と同じような自由な部分も伸ばしていかなければならないはずなのに、それが欠落している。

文章の模倣はタブーなのか?

美術を学ぶ時、模写という手段がある。優れた絵描きのデッサン、色使い、筆使いを学ぶためにある。音楽を学ぶ時にも、優れた歌手の歌い方を真似る。ところが文章を学ぶ時に、優れた作家の文章を真似るという手段はあまりとられない。なんとなく自分の中にある文章の断片を自分の直感に従って文字に書き起こしていくやり方しかない。文字化されたものは既に結果であり、その結果についてとやかく指導される。文章を紡ぎ出す過程についての指導は学校ではあまりなされることがない。

作家の文体を真似て書くという課題がもっとあってもいいのではないか?とも思う。しかし、教材化はとても難しい。なぜなら国語教師は文体についてほとんど学んでいないからだ。「漢文調」、「和文調」などざっくりとしたものは授業では取り扱うが、「村上文体」とか、「筒井文体」とか、私も「これがそうだ」と示すことが難しい。

それでも、こういう授業、面白そうだと思うし、国語授業で文体について取り扱ってみたらいいのではないか?

  • ギャル語で自己PR文を書く
  • ラップ調で環境問題についての小論文を書く
  • ダジャレをふんだんに交えて、理科のレポートを書く(西尾維新調)

そうすりゃ、作文も楽しくなる。

実用的な文書はどのくらいの人に必要なのか?

学校教育で求められているのは、「きちんとした文章」だ。誤字脱字が無く、かかり受けが正しく、文体も統一している文章だ。通知文書や指示文書のようなもの。でも、これって、どのくらいの人に必要なものなのだろうか?実用的な文書は理解する必要はあるけれど、書ける必要はあるのだろうか?大体、実用的な文書はテンプレートがあって、それに日付やタイトル、場所などを差し替えればいいだけのものがほとんどだ。実用的な文書をイチから作成する職業って、ほんの一握りの職業に限られている(我々研究者は「論文」という実用的文書の粋みたいなものを書いているけれど)。

だから、高校で小論文を書く指導がなされている。もちろん小論文を書くことによって思考が整理されるということはあるのだが、じゃあ、書かされた高校生のうち、どの位の人が論文を書く必要があるのかというと、大学に行く人くらいしかいないのでは?しかも、大学でも卒業論文を課さないところもたくさんある。そして大学を卒業したら、そんなものを書くことはほとんどの人が無くなる。

つまり、実用的な文章を書かせようとして、その文章自体実用的なものではなくなっているという矛盾がある。そんなことも考えないで、学校ではせっせと小論文を書かせている。小論文、本当に必要なんですか?入試のためダケジャナイですか?

生涯にわたって文章制作を楽しむ

現代はかつてなかったほど人類が文章を書き、文字データが全世界を行き交いしている時代だ。今の児童・生徒はそのような中で生きて行くのであり、じゃあ、文章を書くこと自体を楽しめるようにすることも学校教育に必要なのではないか?とも思う。スポーツを行うのは、プロになるためだけでは無く、生涯にわたってスポーツを楽しむためであるように、文章を書くことも生涯にわたって文章制作を楽しむためであるべきだ。

そういう視点を持つことによって、「文書嫌い」の児童生徒を減らすことができるのではないか?と思う。

作家になるためだけに文章を書くのではない。Jリーガーになるためだけにサッカーをしているわけではない(写真は駄洒落でした)。

学部2年生授業「教育実践基礎論」最終回での話

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2020年度の教育実践基礎論が終了した。今年は25名の学生さんが履修して、途中コロナ禍により校内入校禁止やら、曜日変更やらイレギュラーが起こり、2月上旬まで授業を行うことになった。本来ならば、1月末でレポートを提出、最終プレゼンをして終わるのだが、それも出来ず。1時間で3人担当者が20分の模擬授業をし、それに対するコメントを必死に書き、授業担当者は学習者や観察者のレポートとともに、自分の授業をふりかえるというルーティンで無事に終わった。

たくさんの模擬授業を参観し、数多くの学生さんが時間内で練りに練った「こういう授業をするのがよい」と思った授業デザインを元に授業をしてくれたのだが、そこから見えてきた模擬授業の傾向をまとめる。

子ども扱いするな!

ほとんどの学生さんが小学校の先生を希望している。しかし、その模擬授業の言葉遣いなどから、学習者を子ども扱いし過ぎているのでは?と思う場面が多々あった。授業の設定として、「大学生相手に、大学生の思考力に耐えうる課題を課すこと」としているのだが、実際にしてみると大学生相手への言葉遣いじゃなくなっている。

「お友だち」
「分かりましたか〜」
「書き終わった人は鉛筆を置いて顔を上げて」

今までおこなっていた模擬授業では、学習者役は、小学生のフリをしていたものが多いらしい。その無意味さを説いて、「学習者は大学生そのままとして授業に参加するように」と伝えても、「は〜い♡」と返事をする。私の授業中の問いかけには頷くだけなのに。「模擬授業」という虚構場面に自然に入ってしまうようである。そのような「模擬授業」を打破しなければ、学習者はわかったふりをして、授業者の学びには繋がらない。

また、本当に小学生相手だったとしても、本当にそんな子ども扱いをしていいのだろうか?私は小学校低学年クラスで授業はしたことがない。しかし、自分の子どもの小学生の時、または、学校訪問で小学校低学年の児童に接したとき、「子ども言葉」を話さなくても十分に伝わっていたという実感がある。もちろん難易語は言い換えなければならないが、大人と話す時の口調で話しても十分伝わる。児童は、子ども扱いされると、気分を害するのではないだろうか?「子ども幻想」は取り払って人と人の対等な対話をして接してほしいという願いがある。

目標を語れ!

「めあて」というと、「その時間の課題」と捉えているのだろうか?具体的にどう活動すれば良いのかを示すのが「めあて」だろうか?私は、「目標を語れ」と毎時間伝えていたのだが、それが難しかったようだ。「目的」と「目標」がある。教育の目的は、「人格の涵養」であり、それを達成するために「目標」がある。どうしてその活動をするのか、その活動を行うとどんな力がつくのか、どんないいことがあるのか、そういうことを語ることで、学習者のモチベーションを上げてるべきだと伝えた。

しかし、それが結構難しかったようだ。今まで受けてきた授業はきっと(特に高校の授業では)、「教科書に載っているからそれをやる」ということだっただろう。だから、この課題をやるとどんな力がつくのか、なんて語って貰えなかったから、自分で語ることもできない。だから指導案の「目標」の欄に、「課題(=その時間に行うこと)」を書いてしまう。ここら辺の意識の転換を継続的に行っていく必要があるだろう。

評価を忘れるな!

活動の時間を十分取って、自己評価させて終わりという模擬授業がたくさんあった。自己評価も「○○は達成できましたか? よくできた/できた/できなかった」というようなものだ。目標を測るものが評価なのだが、どの程度まで達成できたのかが評価基準となる。教師がそれを評価できなかったら、または、評価基準を示せなかったら、何を学べたか分からない。活動して終わりという授業になる。

また、例えば「皆さんは、言葉の大切さを学びました」というように、最後に授業者がまとめることをしてしまう。それは学びの評価ではなく、「価値観の押しつけ」である。本当に学んだかどうか、学習者はわからない。「言葉の大切さって何?」ということになる。「目標と課題と評価の一体化」を半期を通じて伝えた。これはとても難しいことなのだが、学部2年生から意識していかなければ、教員1年目からそれを提示することができないだろう。

わかる言葉を使え!

評価基準や、課題内容に「自分の言葉」「深く理解する」「まとめる」「十分に説明する」「自分なりに」というような語がふんだんにある。学習者への説明もこのような語を使う。しかし、授業者が本当にわかるのだろうか?「自分の言葉」って言って、「自分の言葉じゃない言葉って何?」と定義できるのだろうか?我々が喋っている言葉って、全て他人からの言葉じゃないの?というツッコミに答えられるのであったら「自分の言葉」という語を使うべきである。

評価基準に使う言葉にそのような曖昧な語を使うと、学習者自身の自己評価が曖昧になる。授業者に評価を委ねる。授業者は「なんとなく」判断を下す。それじゃあ、「目標と課題と評価の一体化」はほど遠い。学習者も自己評価できなきゃ。

このような曖昧な言葉を平気で使う土壌が教育界にはある。でも、授業者の「わからないことへのごまかし」と、学習者の「わかったふり」でなんとなく成り立っている。そんな突き詰めてやらなくても?と思うかもしれないが、今までわかったふり、できたふりをし続けてきた学習者が「深い学び」に行き渡るはずがない。「深い学び」とは何か?「自分の言葉」で「深く理解」して、「十分に説明」できる人は、どれくらいいるかな?

今のうちだ!

最後に「ミエリン化」の話をした。若者の思春期は、ミエリン化することで終焉を迎える。思春期は、むやみやたらに反抗し、大人が言ったことに反発し、反抗し、危険とわかっているのにわざとそれを実行したりする。しかし脳内の神経細胞がミエリン化すると、そういうことをだんだんしなくなってくるというのだ。ミエリン化は30歳くらいで完了する。だから、坂本龍馬スティーブ・ジョブズ志村けんが今までの人たちが想像だにしないことを実行したのはみんな20歳台だった。

だから、まだミエリン化していない脳を持っている皆さんは枠にはまらず、型を破って今まで古い人間ができなかったことをしてほしい。今までの枠や型にはまったまま教師になってしまっては、日本の教育の現状を変えることができない、と話した。

学校は「勝ち負け」を付けないでいられるところなのか?

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「お笑い」というのは、いつの間にか「勝負事」となってしまっていた。ちょっと前まで「お笑い」は社会や世間からドロップアウトした人が担っていた。「まっとうな学校」、「まっとうな会社」に通えない人が「世間とずれた視点」を提示することにより、「笑い」を引き起こしていた。昔、関西では「そんなんじゃ、吉本にしか入れないぞ」という言葉は、卑称でしか無かったが、今は反対の意味となっている。

さて、吉本が高校を作るというのだが、きっと賞レースに特化して行くんだろう。「お笑い」=「勝ち負け」という図式で生徒たちを鼓舞するんだろうな。でも、勝ち負けのお笑いって面白いんだろうか?お笑いってそれだけじゃない気がする。

伊集院光とラジオと」にゲストでニューヨークが出ていて、先日出たテレビの東西寄せで一緒になった、今でも現役のベテランの漫才は、全くスタンダードから外れた独自の漫才ばかりだった、と言っていた。その漫才コンビしかやっていないから、今でも残っているんだろう、と言っていた。今や、M1に出る人は、M1でいかに勝てるかばかりを考えてネタを作っているそうだ。以前、「エンタの神様」が一世を風靡したときには、1〜2分のネタで受けるお笑いばかりが出ていて、数分のネタでは本領を発揮出来ないお笑いは淘汰されていったそうな。

吉本の高校では、賞レースの理論化された「傾向と対策」をたたき込まれて、それを反復練習してって、大学入試と同じようなことがなされるのかな?大学入試対策って「教育」なんかな?

私は「ああ生きられたらいいんだろうな」というちょっとの憧れ、「そんなバカな」という少しの蔑み、「そこまで出来ないよ」というある意味の尊敬を持てるお笑いが好きだ。「いだてん」で描かれた古今亭志ん生のような感じ。今でもそういうお笑いの人はたくさんいる。しかし、傾向と対策が練られた、チャート式をたどったようなお笑いには魅力は感じない。

本来教育なんて「勝ち負け」、「順位付け」にはなじまず、各人が各人の土俵に上がっていればいいわけで、その土俵には自分しかいないから誰とも戦わなくていい。そんなのが理想なのだが、「現実は違うよ」という人がたくさんいるのはわかっている。じゃあ、現実変えようとしなきゃ、「現実は違うよ」と言う人の土俵で戦わなければならなくなる。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」のある登場人物が「降りるために昇るんさ」と言って、それがキーワードとなって物語が進んで行ったが、土俵から降りるというのも、一つの生き方であり、摩耗しない生き方だ。土俵から降りられないでもがいて病気になったり過労死したりするのが今の日本だ。「降りる」ということも学校で伝えていかなければならないと思う。

浦沢直樹「20世紀少年」で、戦いに行くとき、主人公が仲間に「命が危なくなったら、逃げてくれ」と言う場面があった。とても印象に残っている。普通、こういう悪に立ち向かう場面では「命をなげうってでもみんなのために戦おう」なのだが、そうではない。最近になって「逃げるは恥だが役に立つ」という番組も現れた。

学校って、「生き方」を学ぶところであってほしい。その人の「生き方」には理論化された「傾向と対策」なんて無い。学校はたくさんの人から自分に合った生き方を学べるところであってほしい。私が落語が好きなのは、数少ない「師弟関係」が存続しているお笑いだからかな?内弟子時代に理論化されていないその人の「生き方」に学んでいるんだろうと、勝手に想像する。

今年はいろんなものから降りよう。

授業の目標はどのように設定する?

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今日の学部の授業で、模擬授業を観察した後、「やっぱり、目標設定が難しいね」という話をした。そこで

目標設定には「付けてほしい力」を示す。「力」には、「見方・考え方」と「技術」がある。

と示したら、質問のメールが来た。「見方・考え方」は今まで言われていたからなんとなく分かるけれど、「技術」がよく分からないと。

こんな風に返信した。

技術としては、今日のYさんの授業に関していえば、Yさんは、「言葉というのは限定的な機能しか無い」という「見方・考え方」を身に付けさせたいというのが目標でした。

この授業を「相手に伝わる言語技術を身に付ける」という目標で授業することも可能だったと思います。相手に伝えるためには、どのような工夫をするのか、言葉の選び方だったり、抑揚の付け方だったり、言い回しだったり、表情だったり、これらを身に付けることは「技術」となります。

算数でいうと、「九九を覚える」ということは、「技術」であり、「かけ算の仕組みを理解する」というのは「見方・考え方」となります。小学校の教科の目標では、低学年に行くにつれて「技術」の方が多くなるのではないでしょうか?

大学でいえば、「理論」が「見方・考え方」であり、「実践」が「技術」という対応になると思います。もちろん、小・中・高校でそれらを同時に目標設定することが可能ですし、目標設定した授業もあります。いずれにせよ、意識することが重要です。

目の付け所がいいですね〜。

返信が来た。

見方考え方は知識?や認識?に近いものでしょうか。

見方考え方だけを持っていても機能しませんし、技術だけ磨いても裏付けがないのではいけませんね。技術と見方考え方両方育成する必要が理解できました。

このように答えた。

「見方・考え方」は、「知識」、「認識」というよりも、「フィルター」だと思って下さい。

「それを学ぶことで、見えるようになる、考えられるようになる」というものです。

例えば、「負の数」というのは、「見方・考え方」であり、そのように考えられるようになることで、「負の数」は存在してきます。「「マイナス1」というのがある」という知識を得たからといって、「負の数」を使って物事は考えられないということです。

もっといいたとえや、具体例がないかな〜。