Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

福田村事件(を観て考えた差別を生み出す構造)


2023年 日本 高田世界館視聴

毎月1日映画の日でも、高田世界館は、割引じゃないのか。1,700円払って(会員カード紛失!)観たが、いやぁ、払うだけの価値はあった。

新潟県内でこの日上映しているのは高田世界館だけ。全国では9月上旬ロードショー開始だったが、高田世界館では、この金曜日からかけられた。私の性格として観るのを延ばし延ばしにすると、見る機会を逸するので、さっそく観に行った。

www.fukudamura1923.jp

森達也監督は、今までドキュメント映画を作っていたが、ドキュメントではないものは今回が初作品だということだ。全てのドキュメント映画同様、森達也監督のドキュメント作品も、ある程度の脚色(編集・意図)が入っているのだが、初めからドキュメントではないという映画を作ることで、この事件の解釈が入り、むしろそっちの方が「真実」を映しだしているのでは?と思えてくる。

いろんな人に観てほしい映画だから、この投稿で細かく書くのだが、ネタバレになっているという矛盾を孕んでいる。

「差別」が生まれる(露わになる)状況を考える

学校教育に携わる身としては、「差別」、「いじめ」は避けて通れない教育問題だ。それらが生まれる要因、条件、要因、構造、状況、原因を考えていかなければならないと思っている。「きっかけ」ではなく、「原因」などだ。学校において「きっかけ」を取り除いたとしても、差別、いじめは無くならない。原因等がくすぶっていれば、どんなきっかけでも露わになってしまうからだ。

映画「福田村事件」では、様々な差別を生む条件、状況が複雑に入り組んで、その結果、悲劇的な事件が起こってしまったのだと思われる。それらを洗い出してみたい。

一般化、抽象化、「くくる」という人間の能力

人間は様々なセンサーが体に付いていて、たくさんの情報が体の中に入ってくる。その全てを取り入れて処理していくと、オーバーフローを起こしてしまって、パニックになる。よって、今まで入ってきた情報を一般化、抽象化してひとつひとつにこだわらなくてもいいような状態にする。「似たものをひとくくりにする」という能力だ。この能力があるからこそ、「同類」や、「差異」を認識できるようになる。

「くくり」は、決められたものがあるわけでは無く、それぞれがそれぞれの感覚で捉えて、「あ、これは似ている」「これとは違う」と感覚だ。とても大切なセンサーと感覚なのだが、「これは同じ」という判断がなされることにより、「これは違う」というものが自ずと生まれる。

映画の登場人物は、ほとんど「日本人」、「朝鮮人」という「くくり」で人を捉えていた。これは現代でも当たり前の感覚ではある。街を歩いていて、日本人っぽくない姿形の場合、「あ、外国人だ」と必ず意識してしまう。先日東京主張の時も、外国人観光客が多くて、「あ、外国から来たんだな。観光客が増えてきているんだな。」と思った。

しかし、この映画は、「朝鮮人関東大震災に乗じて襲ってくる」というデマがはびこり→「我が村を守らなければ→朝鮮人を殺すべきだ」という図式になり、日本の行商の人たちを虐殺する事件を描いている。

どうして「襲ってくる」というデマを信じてしまったのかも考えなければならない。

人間は「くくり」をしてしまう生き物

一般化、抽象化し、「くくる」ことをすると、「同じ」「違う」という認識が生まれる。問題は、その後だ。「同じ」だからどうなのか?「違う」からどうなのか?

  • 「同じ」だと嬉しい、「同じ」だと嫌だ。
  • 「違う」と嬉しい、「違う」と嫌だ。

どちらの感情もある。もちろんどちらの感情も生まれない場合もある。

「福田村事件」に描かれている差別意識は、特別のものでも無く、我々が生み出す差別意識そのものが描かれていると思うが、「「違う」と嫌だ」というものが露骨になったものだった。

福田村のものは襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村は日本人の村で、日本人は襲ってこないが、朝鮮人は襲ってくる。
福田村という日本人の村には朝鮮人は入れない。
福田村という日本人の村に入ってこようとする朝鮮人は排除すべきだ。
福田村という日本人の村に入っている朝鮮人は殺すべきだ。

という思考手順で虐殺が行われたように思われる。

「くくり」で考えれば、以下のように福田村にはいろんな「くくり」を設定することができる。

家族 //A// 組織(役目) //B// 我々の村人 //C// 日本人 //D// 朝鮮人

そしていろんなくくりで対立(ちょっとした喧嘩、いさかい、トラブル)が起こっている。過激に考えて朝鮮人を排斥しようと考えている水道橋博士をを長とする退役軍人会とデモクラシーを推奨している村長(豊原功補)は事あるごとに対立していた。これは、組織内外の対立となる。退役軍人会にとっては、村長は自分の組織ではなく、我々の村人となり、//B//のくくり外の人となる。しかし、村長は、退役軍人会を「我々の村人」と捉えている。

家族の捉え方で、対立したり、許容したりするのも映画内でもあるし、我々の身近なところでよく起こっていることだ。

くくりの内外をどこに設定するかで、「我々」の範囲が変幻自在となる。

なぜ「我々」という意識を持つのか?というと、安心するためだ。家族と顔を合わせる度に、「こいつは今何をしてくるか解らない」と思っていたら、身が持たない。本当に何かをするわけじゃないというのは分かっていても、毎回毎回それを確認していては、精神的に参ってしまう。つまり、「安心」するために、「くくり」を設定する。

退役軍人会だったら、このメンバーだったら、考えも同じだし、喜怒哀楽を共有できると思うことで、安心する。


映画でも、退役したが、軍人会に入っていない東出昌弘が

戦争から帰ってきても軍服を着て、事あるごとにつるんで、そんなに軍隊がいいのか!俺はいつも殴られてばっかりだった。

と批判する場面があった。東出昌弘は退役軍人ではあるが、軍人会に入らない。軍人会の「外」の存在である。そして対立も起こす。同じ福田村内でもさまざまなくくり内外によって対立が起きる。軍人会の中で、東出昌弘の味方をする人はいない。

「違い」を認識するだけか、排除・攻撃するのか

「くくり」をしてしまうのは、自然なことだとは思うが、くくって、くくりの外にある存在をどう考えるのかは、人それぞれであり、くくり外の存在を必ず排除するというのは、陥りやすい罪なのかもしれないが、自然なことではない。

「同じ」を認識し、くくって、「違い」を露わにした外の素材を「排除」「嫌悪」「攻撃」する必要は無い。ただ、くくり外の存在が「ある」と認識するだけでいいはずで、負の感情を抱く必要はどこにあるのか?

考えられる理由として

「くくり内」を認識して、「くくり外」を排除、嫌悪、攻撃することによって
1.「くくり内」に危害が加わらないようにする
2.排除、嫌悪、攻撃することにより、「くくり内」の「くくり」を壊したくない
3.「くくり内」を変化のない居心地の良い場所にしたい

この2つが考えられる。「いじめ」の構造には2.が生じていると思われる。外に敵がいれば、内がまとまるというものだ。ただ、いじめにおける「くくり」は簡単に変動するもので、攻撃対象がいなくなった場合、「くくり」が変更され、くくり内の存在がくくり外に追い出され、攻撃対象となる場合が良くある。

1.は、くくり外の存在が危害を加えてこなければ、排除、嫌悪、攻撃の必要性は無くなる。

3.に関しては、永続的に変化しないということはあり得ないので、くくりは常に微調整される。


退役軍人会の長水道橋博士は、朝鮮人が攻めてくるというデマを聞いたのだけれど、「いくら何でもそんなことは無いのでは?それほど武装しなくてもいいのでは?」という意見を漏らした途端、ほかの軍人会メンバーに「びびっているのか?日和っているのか?」とバッシングを受けた。

他のメンバーは、水道橋博士がくくりから外れるのを恐れたし、水道橋博士自身も、このままでは外されてしまうと感じ、「そんなことは無い」と、武装することに賛成し、以後、朝鮮人排斥の先鋒として指揮していくことになる。攻撃することにより、くくりの中に仲間を引き戻したという2.の例でもある。


朝鮮人の中にもよい人もいれば、悪い人もいる」と主張する田中麗奈。親の仕事の関係で、朝鮮で暮らしていたのだ。しかし、「朝鮮人」というくくりを持った人には聞き入れられない。一度くくったものの中は全て同質であるはずだという思考停止が起こっている。

「これらとあれらには違いがあるな」と認識するだけで終われば、差別は生まれない。「違いますけど、何か?」となるだけだ。人間は石に対して差別意識は持たない。全く違う存在だからだ。

だから、差別が生まれる背景には、ある程度共通点(同じ人間)があり、ちょっと違っている点(他の村、他の国、他の人種……)がある場合となり、そして、上記1.〜3.が関わっている場合だ。全く関わらなければ、関心も持たず、何も感じない。排除、嫌悪、攻撃するのは、利害関係が関わった場合だ。

約200年前、福島県山口県が大きな戦争をしていた。いや、日本全国で戦争をしていた。新潟県も新政府軍(山口県、鹿児島県等の連合軍)と戦争をした。2023年の今、そんなこと信じられないと感じるはず。それは「くくり」が大きく変わったからだ。「藩」というくくりが無くなり、「日本国」というくくりになった。「キングダム」の始皇帝もそういうことを考えて戦争をしかけたのだろうか?しかし、戦争を無くすための手段は戦争しか無いって、自家中毒に陥っているように思える。

「ランキング」と「優劣(優越感、劣等感)」の意識の繋がりは?

「くくり」をおこない、「違い」を認識したあと、次に生じるのは「優劣の判断」だ。

優劣の判断はしなければならないこと、必然のことなのだろうか?

「2位じゃだめなんでしょうか?」という有名なフレーズがあった。ランキング信奉者に冷や水を浴びせるいい言葉だと思う。ランキングしたら上の順位の方が「良い」というのは、幻想なのでは無いか?ランキングすることと、上の順位の方が優位というのは連動しているものではない。ランキングは(主に)数値による客観的なものである。そして上位の方が「良い」と捉えるのは、感情的なものだ。

初めからランキングを競うゲームだったら、1位がいいのはゆるぎない事実だ。プロスポーツはランキング上位になるために行っている。しかし、社会は競っていない、競う必要も無いことにも無理矢理ランキングを付けて、競わせようとしている。「住みやすさランキング」とか、「満足度ランキング」とか。そもそも教育に競争は必要ない(むしろ競争させると教育効果は落ちる)のにも関わらず、何かに付けランキングを付ける。

差別意識は、「俺よりもあっちが上」、「あっちが下」と思うことだ。


福田村を訪れた行商の人たちは、被差別部落出身だ。移動している最中、朝鮮の女性が朝鮮飴を売っていた。仲間の一人が「朝鮮人だったら飴の中に何入れているか分からないぞ」という発言をする。親方(永山瑛太)はそれを咎めて、仲間のみんなに朝鮮飴を買ってやる。「今日の親方は珍しく気前がいい。どうして?」と一人が訊いたら「以前、俺も『おまえたちの薬に何が入っているか分からない』といわれたことがあった。」と答えた。

あるシーンで行商の1人が「朝鮮人と、俺たち、どっちが上なんだろうな。」とつぶやくシーンがあった。

あるシーンでは、行商の人たちが、病気(明言はされていないが、見た限り、ハンセン病)で苦しんでいる人に「治る」と言って、薬を売っていた。そして「俺たち下のものは、もっと下のものから金を取っていかないと生きていけない。」と言う。

人間は「上」とか、「下」とか、意識せずには生きられないことなのだろうか?もちろん「下」に見られ続けていたら、気分は悪いし、生きる気力も無くなるけれども、「自分は上だ」と思わないとやっていけないのだろうか?「上」とか、「下」とか、何も感じなければ、淡々と生きていけるのでは無いだろうか?

下に見られ続けている人が、自分は「上」だと思うことで、生きる気力を奮い立たせることになるだろう。しかし、そもそも下に見る人は、どうして自分以外の存在を下に見る必要があるのか?下に見ないとやっていけないのだろうか?他から下に見られているからそういうことをしているのだろうか?

そう考えると差別意識は連鎖することになる。「上」と思われる人が「下」と思われる人に対して差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。差別された人が自分は少しでも「上」と思うために「下」を見つけて差別意識を持ち、「排除」「嫌悪」「攻撃」する。じゃあ、一番「上」の存在は何なのだろうか?その人は劣等感を抱くことは無いのだろうか?

ドラマでもよく描かれているが、政治や企業のトップで、虚勢を張り、威張り散らしている存在は、絶対的に自分がトップだと思っているのか、虚勢を張らないとやっていけないからそうしているのか?そもそもそんな人はドラマだけの存在で、現実にいるのかいないのかよく分からない。


日清戦争に行って帰ってきた老人柄本明は、村の若者の出征出陣の宴会で出征者を鼓舞するために「戦争で戦ってきた話をしてくれ」と請われる。何人もの敵をどんな風に殺したかをは話してくれと言われる。柄本明は話し出さない。その後別のところで喧嘩が始まり、この件はうやむやになるのだが、家に帰ってきて息子に戦争で人を殺したのは噓だと告げる。自分は馬番で、人を殺したことは無い。たくさんの死体を片付けただけだ。おまえたちに尊敬されたくてそんな噓をついたと告白する。

そんな虚勢を張らないと人は生きていけないのだろうか?

こう考えると、自分は「上」と思ったり、自分の「下」がいると思わせないと人間は生きていけないのか?と思えてくるが、本当にそんなことがあるのか?人間の本質なのか?そうなると上には上がいて、本当のトップになる人は、全世界でたった1人ということになってしまう。全世界で1人を除いてその他全ての人は「不幸」ということになってしまう。

本当だろうか?

足るを知る

老子の言葉で

足るを知る

というものがある。「全世界で1人を除いて幸せと感じている人はいなくなる」ということが起きていないのは、「自分はこれくらいで幸せだ」と思うからだ。問題なのは「これくらい」がどのくらいなのかだ。満足と不満足のボーダーラインは誰が決めるのか?

一番いいのは自分で決めることなのだろうけれど、自分で決めるボーダーラインは様々なものに影響される。家族、学校、世間、会社などである。周りが「そんなんで満足してちゃだめだ」「もっとできるはずだ」「もっと上を目指せ」などと「教育」することで、ボーダーラインはどんどん上がる。その上げられたボーダーラインにとうてい届かなくなったとき、劣等感が生まれる。

もちろん「上を目指させる」教育全てが悪いわけでは無い。本人が望んでいる場合、そう伝えて励ます場合は効果がある。問題なのは本人が望んでいない場合だ。周りの希望と本人の意思の齟齬により不幸が生まれる。

格付け機関になっている学校

さて、学校はどうなんだろうか?何でもランキングを付けて、ランキングにそぐわないものにもランキングを付けて、競わせて、上を目指させ、「そんなので満足しちゃいけない」とボーダーラインを無理矢理上げさせ、他人の価値を押しつけ、不幸を生み出していないだろうか?そもそも点数で測れない「学力」に点数を付けている。何のために点数を付けるのか?学力レベルを可視化するためだけだったら何とか許容できるが、ランキングを付ける、競わせるために点数化しているのが現実だ。

「2位じゃだめなんでしょうか?」じゃなくて、「最下位じゃだめなんでしょうか?」。だめじゃ無いと思う。だめだという人は、その理由を「幸せ」という視点で述べてほしい。


ランキングで上位が良い、下位がだめというのは、教育のたまものであるし、その思い込みを壊すことができるのも教育であるべきはずだ。福田村村長はデモクラシー推進派だが、それも教育によってなされたものだ。いろんな思い込みは、教育によって解放される。教育の成すべきことは大きい。

「幸せ」という視点で物事を捉えてみる

他人を下に見て優越感を得て生きていく人生は幸せなのか?

他人を下に見て優越感を得る人は、常に上からも下に見られているという意識がある。そんな気持ちを抱いて、常に誰かよりも上になることを考えていて、幸せを感じることができるのか?

「足る」と感じたそのボーダーラインは、誰からも意見を言われる筋合いが無いものであるはずだ。問題なのは、世間が劣等感を抱かせようと働きかけていることだ。人生に「優劣」なんて存在しないのに。

「かもしれない」という恐怖心

非常時の「かもしれない」

原因不明の流行病、目に見えないものが襲ってくるかもしれないという噂(例:もののけ口裂け女?)、突然起こる大災害、戦争などが発生すると、差別意識が顕在化する。

「福田村事件」では、関東大震災だった。

最近でも熊本地震では、ライオンが逃げて街を歩いている、とか、東日本大震災では、東北地方では誰かが商店を襲って物品を強奪している、とか、中越地震では、テレビ局の中継車が避難所に押し寄せて、支援物資を届ける自動車の通行の邪魔になっている、とか、コロナ禍では、トイレットペーパーが品薄状態だ、とか、コロナウイルスにはイソジンが効く、とか。

平常時では「いやいやいやいや、そんなこと無いでしょ?」とツッコミを入れられるのに、非常時だとその判断ができない。できにくい。もちろんツッコミを入れられる人も中にはいるのだが、それがたくさんの声にかき消されてしまう。100人中、1人がツッコミを入れて、99人に否定された場合、ツッコミを入れたその1人がずっと主張するのはとても難しい。そういうことも「福田村事件」では描かれていた。

関東大震災に乗じて、朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」
朝鮮人が井戸に毒を入れて回っている」
「暴動が起こっている」

そんな噂が流れ、それをどんどん触れ回る。映画の中では、噂の出所の1つを、刑事としていた。刑事が自転車で街を回って噂を触れ回っているシーンがあった。そうしている理由があまり描かれていなかった。国(もしくは、警察)は、そうすることによって、朝鮮人を弾圧しようとしていたのだろうか?

「いや、そんなこと、あるはずがない。」と登場人物で否定する人は、事あるごとに登場するのだが、「いやいや、ありえる。」とそれを否定する人が描かれる。否定されたら「それをあなたは本当に見たのか?」と反論する。「いや、みんな言ってる。」としか答えられないのだが、その噂はどんどん広がる。

「そんなこと、あるかもしれない」という恐怖を止めることは難しいのだ。

報復されても当然だという負い目

朝鮮人が襲ってくるかもしれない」という恐怖を生み出すもう一つの要因に、「日本人は朝鮮を併合し、朝鮮人を虐げているから、報復してくるかもしれない。」という考えも当時蔓延していた。つまり、日本は朝鮮に酷いことをしているという認識があったということだろう。酷いしたことの報いで襲ってくるかもしれない。つまり、自分たちがしてきたことと同等(またはそれ以上)のことをしてくるのでは?という恐怖だ。

これは恐怖をどんどん大きくする。どんな酷いことを自分たちはしていたのか計り知れないのに、それと同じようなことをしてくるかもしれないという恐怖。それを防ぐために朝鮮人を殺そうということになってしまう。

進撃の巨人


進撃の巨人」には、これらが全て描かれている。物語は突然の巨人の出現によって始まる。圧倒的な暴力である巨人が人間を殺戮する。なぜ襲ってくるのか、どうやれば撃退できるのかは全く分からない。なんだかわからないものが自分たちを襲ってくる。それに対する圧倒的な恐怖。巨人を討伐しなければ人類が滅びる。いつ襲ってくるのかもしれない存在として巨人は描かれ出す。

その後ストーリーが進むと、民族間の報復合戦となってくる。滅ぼしに来るかもしれないのなら、先制攻撃をしかけようということになる。

そして、なぜ滅ぼしに来るのかというと、1,000年以上前の先祖が行ったことを起こさないためにその民族を根絶やしにしようとしていることが分かってくる。

進撃の巨人」は突発的な大災害、感染症、人知を越えた存在、人種差別等々による戦争を描いている。差別、戦争の構造は、人間の営みであるので2つの作品で共通して描かれていることが分かる。

「かもしれない」で人を動かす

「かもしれない」を植えつければ、人を簡単に動かすことができる。「本当にそうなの?」というツッコミを消し、恐怖は洗脳するのに好都合だ。

「いい子にしていないとサンタが来ないかもしれない」
「英語を学んでいないと、将来困るかもしれない」
「進学しないと、職に就けないかもしれない」
「いうことを聞かないと孤独になるかもしれない」

無知であるということをいいことに、不安を煽り、いうことを聞かせようという教育は現代でもなされている。上記の事例は大人になれば、「そんなことは無いよ」と簡単に否定できることだ。つまり、「かもしれない」を払拭するのは、「大人になる」、「世の中はそう単純じゃ無いよ」と、複雑になる教育が効果的であるということ。

権力に対する付き合い方

マスコミの存在意義


地方新聞社の編集長ピエール瀧は、政府が出した、朝鮮人暴動に対する自警団組織の通達を新聞に掲載しろという。配下の記者は暴動なんてあり得ないから掲載するべきでは無いと反対する。編集長は掲載しなかったら、どんな圧力があるか分からないと応え、掲載する。

記者が目撃した1人の朝鮮人を数人が寄ってたかって殺したことを記事にするという。ピエール瀧は、掲載できないという。

この当時、マスコミは政府のプロパガンダとなっていた。政府に都合の良いことを掲載し、逆は掲載しない。新聞が「暴動なんてあり得ないのでは?」という意見を載せるだけでも、殺人の数を減らすことができた可能性はある。

何を報道しなかったのか?

マスコミを問う時に、「何を報道したか?」では無く、「何を報道しなかったのか?」を問うべきだということを知った。

しかし、これにおいては、起こった事象に触れていない人は「何を報道しなかったのか?」を検証することができない。この映画においては、1人のか弱い、無抵抗の朝鮮人(朝鮮飴売り)が、寄ってたかって殺された事件は編集長によって握りつぶされた。つまり、政府のプロパガンダだということだ。

権力寄りのマスコミは、その存在自体が罪だということが分かる。

最近ジャニーズ性被害問題がたくさん報道されているが、被害を訴え始めたとき、ほとんど報道されなかった。1人が声を上げたとき、各社が報道すれば、次の被害者は出なかった可能性がある。この記事だと、1960年代からあったという。
news.yahoo.co.jp

しかし、それを報道しなかったということは、マスコミは芸能界で圧倒的な力を持っているジャニーズ(事務所)に迎合していたということが分かる。

もう一つジャニーズ性被害問題でおかしいと思うのは、ジャニーズ事務所所属タレントをどんどんCMから外しているということだ。そうしている背景には、圧力をかけてジャニーズ事務所を追い込もうという意図があるのかもしれないが、所属タレントには何の罪も無い。「あそこの国のトップや幹部の政策が気に食わないから、その国民を迫害しよう」という構造と同じだ。

田中麗奈が言った「朝鮮人にはよい人もいれば悪い人もいる。日本人も同じ。」という考え方と真逆だ。

圧倒的に力を持っている側の情報や圧力に従う

同時期に盛り上がっている労働運動についても描かれている。関東大震災が起こった後、労働運動は徹底的に弾圧され、牢獄に入れられ、混乱に乗じて運動家が殺害されていることも描かれている。労働運動をしていた場所に、旗が破られ散らばっていて、弾圧された様子をみて、通行人は「お上に逆らうから、こういうことになるんだ。」とつぶやく。

圧倒的な力に迎合しようというところにも、思考停止が起こる。

新聞記者は見てきた事実を書こうとするが、編集長は圧倒的な力に対抗しない。

今まで逆らえなかった力が存在しなくなって、世間のジャニーズバッシングの機に乗じて、CMからタレントを外す。ジャニーズ事務所所属タレントや、それが生み出した作品の良さは色あせないと擁護する意見を表明する人もバッシングする。

「ツッコミが入れられない雰囲気」は、差別を生み出す土壌となる。

まとめ

差別を生み出す構造は?

無知と恐怖で差別意識が生み出される。

「くくり」を作る思考を止めることができないが、優劣を感じなくてもいいこと、恐怖しなくてもいいことは、教育でどうにでもなる。

そのためには、情報の取り扱い能力が問われる。何でもすぐに信じない。触れ回らない。受けとった情報にツッコミを入れてみる。大多数の意見や雰囲気に簡単に流されない。全て今の日本の教育現場で大切だとされていることだ。

しかし、非日常が起こると、そんなことひっくり返されて、ネット上に根も葉もない噂がはびこる。だから、「こういうことがあったんだ。」と言うことを継承する必要がある。この映画は、そのためにも存在しているのだろうと思う。

上映館

新潟県内の上映館を調べてみたら、なんと、イオンシネマなど、大きな映画館でもこれからかけられるじゃないか。観に行きやすい。私は高田世界館で観るべき映画だと思って、行ったのだけれど。

東出昌弘が良い演技をしているから、是非観に行ってほしい。

永山瑛太の最期の一言、心に刺さるから、それを聞きに行ってほしい。

君たちはどう生きるか


2023年 スタジオジブリ イオンシネマ新潟南鑑賞

帰省している次男が観に行きたいというので、カミさんと次男と3人で観に行く。何の宣伝もしていないということで、情報が伝わってこないのだが、次男の友人から聴いた話で、「どんな映画?」と訊いたら「鳥ばかりが出てくる映画」と答えたそうだ。まさにその通りだった。

誰かが観た夢をアニメ映画にしたようなものだったし、簡単には解らない映画だった。「解らない」というのは私にとっては褒め言葉。世の中何でも簡単に解らせようとする表現がありすぎる中、映画を一緒に観に行った人たちの中で、アレはなんだ、これはこうだ、と、語りたくなる映画だった。一度観に行っても解らない。かといって、解ろうとするために二回目を観に行こうとも思わないけれど。

解らなさをずーっと楽しめる映画なんだと思う。

ただ、有名どころが作るアニメは、声を演じている人のチョイスが有名俳優・タレントだったりするので、個人的にはそれは勘弁してほしいと思っている。いつも観ている人が、声だけの出演をすると、「あ、これ、あの俳優の声だ」と気になって、アニメの世界に入れない。有名どころが作るから、お金がふんだんにあり、客寄せのために有名人の声を使うのだろうけれど、簡単に解らせない映画を作るんだから、演じている人も簡単に誰だか解らないようにしてほしいと思った。

キングダム 運命の炎


2023年 日本 イオンシネマ新潟西 鑑賞

前作は「キングダムⅡ」だったのに、「Ⅲ」じゃなくなった。
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「Ⅲ」を付けなかったのは、この作品からでも観てほしいと思ったからなのか?でも、この作品から観るのはかなりハードルが高い。お盆で家族が揃ったので、全員で観に行くことにした。長男がキングダムを全巻持っていて、ちょくちょく私は読んでいた。次男もだいたい読んでいた。カミさんは全く読んでいなかったので、Amazon Prime Videoで初回を自身のiPhoneで観、「Ⅱ」はみんなでNetflixでその日の午前中に観て、午後から「Ⅲ」を観に行った。この数日キングダム漬けだった。

NHK大河ドラマのような、豪華キャスト、(たぶん)海外ロケーションでかなり制作費が高いだろうと思われるのだが、見終わった感想は「いったい、どのくらいまで制作を続けられるんだろうか?」ということだ。現在発刊されている原作の本の初期の初期までしか映画化されていない。「Ⅱ」は昨年上映だったが、年に1回ペースで今後上映できないだろうし、配役も変更していかなければならないだろうし、かといって、「Ⅲ」の続きはストーリーでいえば「次の朝」なんだし。何でここで終わるの?という感じ。

昭和の他作シリーズ映画じゃあるまいし……。

とはいえ、戦闘シーンが迫力あり、上手く描かれていて、見応えがあった。でも、だんだん飽きてくる。もうちょっと戦闘シーンを圧縮して、軍師の戦略、個人と個人の戦いを見せてほしいなぁという感想を持った。

きっと「Ⅳ」も観ると思うけれど。

長澤まさみ、あれだけ?「Ⅱ」のエンドロール後の予告で出しときながら、「Ⅳ」の予告にしか出てこないの?そりゃあ詐欺だよ。

特別編 響け!ユーフォニアム~アンサンブルコンテスト~

2023年京都アニメーション イオンシネマ新潟南視聴

新潟ではイオンシネマ新潟南でしかやっていない。ミニオンズカード得点で観られるのかと思いきや、一律1,500円だという。70分の映画で1,500円かぁ、とちょっとコスパが引っかかっていたのだが、響け!ユーフォニアムは、映画館で観るべきものだった。音が全く違う。音楽映画は家のしょぼいテレビで観てはいけないというのがよく分かった。腹に響くブラスの音が心地よかった。

響け!ユーフォニアムシリーズは、ずいぶん好きで、再放送から追って、dアニメストアを契約して再度観て、映画化されたものも追って、既に追いついていたので、最新映画も観に行った。そして2024年春から新たなシーズンが始まるというので、観に行くおっさんは俺だけでは?という懸念も振り払って、勇気を出して観に行った。そして、こういう映画は、あっという間に上映終了するということを身に染みて分かっているので、上映開始の次の週に観に行った。最近はイオンシネマ新潟南の常連と化している。

京アニは高校部活ものが大得意で、作るアニメは全て自分としては共感してしまう。高校時代、夏の暑い日、部活動頑張っていたし、高校教師時代も夏の暑い日、むやみに指導していた。自分の高校時代や、高校教師時代の部活動に関して、光や闇、酸いも甘いも、かなり知っているつもりだ。そんな微妙な感じや雰囲気を上手く絵がているのが京アニ高校部活動ものだと思っている。だからこんなに見入ってしまう。

自分は音楽をやっていたわけではないけれど、「コンテストなんて嫌い」という登場人物、「コンテストは必要か?」と思いながら、コンテストに打ち込む登場人物、そこら辺の矛盾と折り合いをつけながらもがいている登場人物に共感してしまう。

だから、最近、ステレオタイプ的に「部活動無用論」、「部活動顧問拒否運動」と、部活動なんて打ち込んだこともないし、顧問にもなったことがない人が息を荒くして言っているのだが、残念ながら、そういう人には、つらさや切なさや味わい深さや達成感や充実感や自己マネージメント力なんて、味わったり、育ったりしない。

自分がコントロールできそうなものしか体験しない人、経験しない人、接しない人は、きっとそれほど「複雑な」人間にはなれない。

ちょっと話は大きくなってしまったが、京アニ高校部活動ものはそういう葛藤を描いているから、面白いんだと思う。

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル

2023年USA イオンシネマ新潟南視聴

インディ・ジョーンズシリーズは、高校時代から、映画館で見ていたのだが、年老いたハリソンフォードがそのまま出るというからといって、観に行くつもりはなかった。しかし、ヒロインの吹き替えが坂本真綾ということという一点で観に行った。

字幕版の上映は新潟ではほぼ終わっていて、吹き替え版のみになっている時期、イオン新潟南は平日ながら人でごった返していたが、上映スクリーンは、年寄りばかり(もちろん、自分も含む)10名くらいが見ており、スクリーンの中でもほぼ年寄りが出演していた。

最近のMI6は見ていないのだが、トムクルーズぐらいの年齢だったら、まだアクションに切れはありそうだが、ハリソンフォードは、そうはいかない。ちょっと心配になるくらい。そりゃあ話題にもならず、上映館も少なくなるよな。しかもタイムスリップものになっちゃっているし。

ストーリーはともかく、坂本真綾の声を聴きにいった。それだけでも価値がある映画だとは思う。

終盤の「おはよう」という声が、とても低く、痺れてしまうほど艶があり、この声を聴くために、いろんな吹き替え映画を観に行きたいと思った。

ミニオンズイオンカード契約で、1本1,000円で映画が見られるのを初めて使った。年間30本が、10月から12本に少なくなるという。うーん、踊らされて契約されてしまった。でも、イオンシネマに年間12回も行かないか。

水は海に向かって流れる

J-MAXシアター上越視聴 2023年制作

もちろん広瀬すずを観に行った。「流浪の月」ではとてもいい表情をしていた。広瀬すずは、明るい役よりも、暗い役のほうが、合っていると思う。だから、期待していた「夕暮れに、手をつなぐ」は、なんだか合わないと思い、見るのを途中でやめた。

「夕暮れに、手をつなぐ」でも、ハマっている役だとは思ったのだが、なんだか異常に整った顔だと見ながら思ってしまう。もともときれいな顔なのだが、今までの少しの幼さが抜けてしまって、広瀬アリスのような整いすぎている顔になっていた。メイクがそうなのだろうけれど、いやいや、シェアハウスとは言え、日常生活で、あんなに眉毛バッチリ、ファンデーションバッチリで生活するのはおかしくないか?と思ってしまった。パーティーにでも行くのか?

だから、その整いすぎている顔に見蕩れはするのだけれど、ストーリーにはあんまり入り込めなかった。

それから、出てくる食べ物が美味しそうだったり、広瀬すずのビールの飲み方が、格好良かったりしたので、見て帰ってビールを飲んでしまった。

詳しく調べていないのだけれど、漫画が原作で、きっとその途中までが映画化されている感じ。あの映画の終わり方は好きだった。

そして、當真あみのランニング姿もきれいだったな。ちゃんとランニングフォームのチェックをしたのか、陸上部の走りだった。同じように映り込んでいる他の女生徒の走りと段違い。

TAR ター


イオンシネマ新潟西視聴 2022 USA

5月12日(金)日本公開で、比較的公開したてに観に行った。家に帰っても、カミさん仕事に行って、誰もいないのなら、出かけた方が気が紛れるから。最近は、映画に行こう、行こうと思うのだけれど、直前になると出かけるのが面倒くさくなって結局観なくなるから、朝のうちからネットで席を購入しておいた。こうすれば必ず行くことになる。相変わらずイオンシネマ新潟西は、空いていて、快適だ。ただちょっとJ-MAXシアター上越に比べると座席が狭い。

それはそうと、この映画、謎が多いと3月のたまむすびで町山智浩さんが言っていた。だから観に行きたかったのだが、こんなに公開までブランクがあるとは思わなかった。ラジオで喋っていたことはすっかり忘れていたのだが、新聞の上映一覧で上映中と気づいて観に行った。

その話でのおぼろげな記憶では、

  • 映画の最初にエンドクレジットが流れる
  • エンディングシーンが全く分からない

ということだったのだが、どうして分からないのか、なんて話していたかは思い出せないまま観た。ただ、指揮者の映画だという設定のみ覚えていた。これは事実を元にした映画なのかどうかも分からなかったのだが、後で調べてみると、完全なるフィクションだそうだ。

でも、こんな権力を持った人と、それにつぶされる人、取り上げられる人、力を持った人の周りにいろいろおこる不可思議なこと、部分部分を取れば、実際にありそうなことなんだろうと思う。

自家用ジェットでドイツに行ったり、USAに行ったり、マエストロと呼ばれるほどの音楽科は、そんなこと当たり前なんだろうな。そして人の痛みも分からず虫けらを踏むように、学生をつぶしたり。

物語には複雑化が起こる

というのが最近の私の持論なのだが、主人公は、全ての世界が自分の思い通りに行くという単純な考えから、複雑になっていくという変化を遂げる。そのきっかけが「ホラー」なのだけれど。どんどん恐くなる。

もっと、音楽が流れてほしかったのだが、演奏を聴かせる映画ではなかったのだな。

そして問題のラストシーン、私にとっては、「ああ、こういうことか。」と分かったのは、そっち方面のことにちょっとだけ詳しいからなのか?フリとして「大阪からの指揮者が来なくなった」から、日本文化に関わっているのかな?と気づいたから分かったのかもしれない。