Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

擬似ホームサウナをやってみた

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外気浴
#うちでととのうチャレンジ

初めに

サウナに行けずに2カ月以上が経過している。血流が悪くなるのを感じる。脚のふくらはぎが夜になるとパンパンになる。テントサウナを買うしかないのか?と思ったが、 #うちでととのうチャレンジ の記事を読んで、家の普通の風呂場で擬似サウナをやってみた。

水風呂

水風呂をどうするかがいちばんの問題なのだが、いろんな記事を読むと、浴槽に水をはる、冷水シャワーにする、簡易プールを買ってそこに水をはるという選択肢がある。サウナこそ水風呂でしょう、という主義の私は迷わず浴槽に水をはることにした。自動湯ばりなので、シャワーを冷水にし、浴槽に突っ込んで水を溜めた。蓋をするのを忘れない。

サウナ

さて、風呂場をどう熱くするのか、ということだが、記事には熱湯シャワーを使うとあった。そういえば、浴室乾燥機がついていたので、暖房機能がある。暖房機能を「強」にして、ガンガンかけるが、それだけではまだまだ温度は上がらない。熱湯シャワーも使うことにした。温度設定を55℃にして、からんの温度調節のリミッターを越えたところで、ぎりぎり我慢できる湯温になった。座っている状態でそれを背中にかけ、反転して足先、指先にかけることを何度かくり返すと、「水風呂に入ってもいいかな?」という気分になった。この日外気温は14℃でちょっと寒い感じだったから、水風呂もかなり冷えていた。

水風呂に入る

一般のサウナと違っていいところは、かけ湯をしなくてもいいこと。いきなり水風呂に入る。かけ湯をしないから、いつもよりもおそるおそる入ることになった。水温はちょうどよかった。よく行くサウナ施設の夏の水風呂よりも冷たい印象だ。15〜17℃ぐらいに感じた。入っていると手足の先がちょっと痺れてきていい感じだった。2〜3分入って上がる。上がるときは蓋をするのを忘れない。いつものように3セット試す予定だから、浴室暖房はかけっぱなしでベランダへ行く。

休憩

今回の擬似ホームサウナでいちばん気持ちよかったのは休憩だった。外気温14℃で、それほど風も吹いていない。天気は晴れている。街の喧騒もかすかに聞こえてくる。かなりリラックスできた。ととのうのか?と思っていたが、やっぱり1セット目はそれほどでもなかった。2セット目に突入する。

まとめ

3セットおこなったが、ととのうまでは行かなかった。サウナの温度がそれほど上がらないのが原因だと思われる。水風呂は完璧だったのだが。しかし、休憩していると脚や手先がだんだんジンジンしてきて、血流が激しいのがよくわかる。とても気持ちよかったし、すっきりした。お湯をかけっぱなしということで、エネルギーの無駄なのか?とも思ったが、シャワーの水量は思ったよりも多くない。1回の擬似サウナで、10リットルも使わないのではないか?と思う。足先をお湯を溜めた洗面器につけていたが、もうちょっと大きなタライのようなものにつけていたら、体を温める効果は高いのではないか?と思う。タライを買うかどうかはわからないけれど。電気ストーブのような、輻射熱を発するもので直接体を温めた方がいいのかもしれない。でも、そんなことしたら風呂場の内装を傷めるのかな?

とにかく、擬似サウナだが、水風呂につかれ、外気浴ができたので満足だった。外気温がもうちょっと高くなれば、もうちょっと快適になるのだろうか?20℃くらいになったら再チャレンジしてみようと思う。

今日のととのい度→1 ☆★★★★

「縦の道徳」と「横の道徳」


「民主主義」角川ソフィア文庫 2018年

1948年に文部省が「文部省著作教科書」として刊行したもの。今から70年以上前に書かれたものであるが、70年経った今でも実現されていないことばかりである。このコロナ禍により、日本の様々なほころびが露わになっている。『学び合い』をおこなうと、子どもたちが自由に学ぶ(本当に主体性に任している)姿が見えるようになるのだが、そこでその教室内の「ほころび」が露わになるのと同じである。

ところで、日本では、昔から人間の間の「縦の道徳」がひじょうに重んぜられてきた。下は上を敬い、上は下をいつくしむ、というようなことが、縦の道徳である。特に、君に対する忠と、親に対する孝とが、国民道徳の根本であるとされてきた。これに対して国民相互の対等の関係を規律する「横の道徳」は、その割にいっこう発達していなかった。「旅の恥はかき捨て」などと言って、だれも知っている人のいない所へ行けば、不道徳な行いをしても平気だというような態度があった。「免れて恥なし」と言って、法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのけるといった連中もあった。そのために、日本人は、ややもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという不評判をとるきらいがあった。このように、縦の道徳だけが重んぜられて横の道徳が軽んぜられたというのは、日本の社会にまだ封建的な要素が残存していることの一つの証拠である。民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間として尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを、意に介しない。日本人には、特にそういう欠点が多い。

70年前と今はそれほど変わっていない。上(縦)の意向があれば、横へのリスペクトなんて関係ない。上の威光をかさにして、横、または下を陥れる。横をリスペクトして、上の暴走を止めなければならないのに。

だから今は横へのリスペクトを構築することが大切だ、というのもよくわかる。しかし、横が全てリスペクトに値するものではなく、現実問題として、自分を陥れようと虎視眈々と狙っている存在であったり、その人のプライドを守るために下に見る言動を平気で投げかけてくる存在だったりもする。互いにリスペクトできる人を徐々に増やしていくことも大切だが、その人の言動は真実なのか、フェイクなのか、信用に値するものなのか、でたらめなのか、見極める力(リテラシー)も必要になる。これって、互いに関わる機会を持つだけじゃ、できない。関わる経験をたくさんして、トライアンドエラーでできるというかもしれないが、エラーの時の心の傷で何本心が折れたことか。それほど私の心は多くない。

フェイクかどうか、陥れようとしているかどうかは批判的思考や、論理的思考、メタ認知などを鍛える学びから生まれる。

情報過多では動けない

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在宅で、息子がたくさん持っていたボードゲームを1日1回やるのが日課となっている。というか、気分転換にはとても良い。

先日初めて火星を緑地化するゲーム(テラフォーミング・マーズ)をやった。息子はゲームのルールを教えてくれるのだが、ゲームの全てを教えてくれようと、たくさんの情報を話してくれる。たくさん話してくれるのだが、聞いているこっちは、もうオーバーフロー状態で、結局何をどうすればいいの?と言う気持ちしか無い。そして、「話が早く終わってくれないかな〜?」と思ってしまう。

そのゲームをやりこんでいる人にとっては、その情報は超基本的なことで、「これだけは伝えなければ。」ということなんだろうけれど、こっちとしては、何が重要なことなのか分からない。だから、とりあえずゲームを始めるにはどうすればいいの?と思ってしまう。

こんなのは、世の教室でたくさん起こっている事なんだろうな、と思う。教師は、「超基本的なこと」として、つまずかないように親切心で説明するのだが、来ている学習者は、そんなこと知ったことか、説明長いんだよ、としか思えない。

いちばんいいのは、そのゲームのルールを知っている人とチームになって一緒にやること何だろうけれど、それほど家族が多くないので、それもできず、1人大海に放り出されてゲームをすることになる。そしてゲームの熟達者だけが一人勝ちしてゲームは終わり、「なんだ、つまらないゲームだな。」と思って二度とそのゲームをやろうとは思わない。やり出して、ちょっとずつできるようになり、自分での工夫も反映され、「また次やりたい。」と思って、いつか勝つ、というのが理想なんだろうな。

一昔前よりも、たくさんのボードゲームが市場にあふれ、いろんなボードゲームをプレイする経験を得たけれど、ルールが込み入りすぎて、テーブルにたくさんのアイテムが広げられ、自分の持ち札を見るのが精一杯で、他のプレイヤーがどの程度目標を達成しているのかよくわからないゲームが多いなぁと感じている。ゲーム半ばですでに、「あ、もう勝てないな。」と思えてしまうのって、あまりいいゲームじゃないよな。格差拡大で、逆転ができない。やりこみ要素はあってもいいけれど、一発逆転の可能性も無いと、やる気が失せる。

こう考えると、サッカーというゲームは、よくできたゲームなんだな、と思う。ある程度脚の技術が無いとなんだけれど。

自分だったら……と思っていること。

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私の大好きなラジオパーソナリティー赤江珠緒さんが新型コロナウイルス感染症に罹患した。写真の手紙は「たまむすび」に宛てたもの。検査中のもので、要請の結果はまだ出ていない段階だった。全文はここにある。
www.tbsradio.jp

この新コロナ禍に日本が騒ぎ出して4カ月経とうとしている。自分は、酒井高徳が罹患し、志村けんさんが亡くなり、そして赤江珠緒さんが罹患したことにより、ぐっと身近な、「自分にも起こりうること」という印象が遅ればせながら強くなった。人間は、すぐ後ろに危機が迫っていても気づかないようにしてしまう生き物だと、吉田兼好は言っているが、本当にその通りだと思った。

世界中、「罹患した人」と「罹患していない人」に分断されている。「罹患していない人」は実は「まだ罹患していない人」だということに気づいていないのかもしれない。だから、医療従事者を初めとして、この新コロナ禍の中で、われわれの生活を支えている人に対してひどい言動を投げかけているニュースもよく聞く。一般的な「若者」全般に対しても、快く思っていない年寄りもいると聞く。しかし、これは、「分断」によるもので、この分断はなんだか作為的なもののような気もしないでもない。分断して、自分は「違う方」というところに身を置いて安心する心理もあるのだとも思う。

しかし、「罹患していない人」は実は「まだ罹患していない人」であって、最悪「いつか必ず罹患する人」になる可能性がある。そうであるならば、罹患をなるべく遅らせて、ワクチンが開発された後に罹患するのが得策だ。

そんなこともわからず、罹患していない人が、「自分は罹患しない側の人間」と平気で思っているのがもどかしい。罹患した人を悪者扱いにして、「そいつのせい」と思ったり、数人で話しながら歩いている人を「クラスター感染を招くんだ」と白い目で見たり。いやいや、あなた(私も含めて)、もう罹患しているかもしれないんですよ。自分(私も含めて)が市中で罹患する可能性がかなり高いということを頭に置いて、今のうちからリスクを冒してわれわれの生活を守っている人をリスペクトしなければ、と思う。



最悪の事態を想定して準備するのが、日本人は不得意。と、内田樹先生もブログで書いていた。約20年前、高校教師だったときにディベートで「原子力発電所はなくすべきである。」という論題の試合を設定した。その試合を担当したあるグループの生徒が、近くにある東北電力の支社に取材にいって、「事故が起こったらどうするんですか?」と質問したそうだ。社員は「原子力発電所は事故は起こりません。」と答えたそうだ。そんな報告をしてくれた生徒のことを思い出した。

私にはそんな大事の最悪のことは想定する想像力は無かったけれど、「自分が新型コロナウイルス感染症に罹患したら」という事態を想定しなければならない、と赤江珠緒さんの手紙を読んで実感した。是非たくさんの人に読んで、準備して欲しいと思う。そうか、入院にはサンダルが必要か。

娘は戦場で生まれた

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高田世界館で鑑賞 2019 アメリカ・イギリス・シリア

ドキュメンタリー映画。シリアのアサド政権に反抗するアレッポ地区が陥落するまで、アレッポ地区でロシア、シリアの空爆の下、そこで医者として命を救う夫とそこで生活している人たちをカメラに収めている。

夫との間に子どもができ、娘が誕生するのだが、生まれた時から爆弾の音を聞いているので、空爆があっても泣き叫ぶことはない。それが当たり前になっている。空爆で小さな子が病院に運ばれ、その兄が泣いているのだが、何が起こっているかわからない赤ちゃんはその向こうのベッドで笑っているというシーンが衝撃的だった。

シリアとロシアの卑劣さが描かれていた。

新コロナ禍の中、スカスカの映画館で観ていたのだが、アレッポ地区中心に迫ってくるロシア軍、負傷したけが人がどんどん運ばれてきて病院のベッドが埋まっていき、最後には床に置かれていき、死を待つしかない。そして病院への爆撃で医者たちも何人も死んでいく。今日本で起こっている新コロナ対策とリンクしてしまった。

シリアのことは、ロシアはこういう事情で参戦したとか、アメリカはこういうことで関わっているとか、ニュース解説を聞いて知ってはいたが、現実に何が起こっているのか全く知りはしなかった。アレッポ地区はビルが立ち並び、とても栄えている街だったが、陥落時にはほとんどの建物が壊されていた悲惨な街になっていた。知らないというのは罪だとも思ったし、知らせることが力になるという映画の力を感じた。

三密を避けながら国語科授業で「主体的・対話的で深い学び」を実現するやりかたとは?

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私の受け持っている教職大学院プロフェッショナル科目「中学校高等学校国語科授業づくり演習」で、昨年の履修者と今年履修予定者と、埼玉の高校国語の先生とzoomで繋いで討議を行った。現在本学は休講中なので、「annex(別館)」として開いてみた。新潟県内の学校は、今再開されている(本学附属学校を除く)。そこで、国語の授業は、三密を避けなければならない(避三密)が、そこで授業をどうしたらいいのか、どうすれば付けてほしい力が付けられるのか?ということのアイディアを出し合った。

上越教育大学 新型コロナウイルス感染症の拡大防止に対する令和2年度前期授業の実施に関する取扱い

本学が出した「新型コロナウイルス感染症の拡大防止に対する令和2年度前期授業の実施に関する取扱い(2020.3.30)」では、授業に関しては以下のように示している(抜粋)。

  • 座席はできるだけ間隔を空けて座らせる。
  • 近距離での会話や大声での発声をできるだけ控える。
  • 講中は、常にマスクを着用する。
  • マスクを着用しない場合は、ディスカッション形式の授業は控える。
  • 近距離での会話を慎み、咳エチケットを徹底する。
  • 演習、実験、実技、実習 1グループ当たりの学生数を少なくすることに努める。

新潟県内学校は、授業開始しているので、上記のようなものが適応される(または、もっと厳密なもの)と考えて良いだろうということで、このような状況下での国語授業についてアイディアを出し合った。ただ、感染症対策の専門家ではないので、エビデンスがあるわけではない。しかし、何でもかんでも自粛自粛で、当たり障りのない、誰からも文句が言われないような授業をこの新学期にやっていけば(つまり、チョーク&トークの一斉授業)、人間関係形成なんてできたものじゃない。いやいや、生徒が喋ることもできないんだったら、教師も喋れないでしょう?

なお、新潟市教育委員会のガイドラインでは、飛沫がかからない十分な距離が保たれ、換気が充分であれば、必ずしもマスクの着用が無くとも発言、発声はできるとしている。

上記のような形態が許されている状況でも、これから書くことは問題があるという場合はご頂いたご意見を元に、適切なものにしていきたいと思っている。

新学期のアイスブレイクは?

  1. 自己紹介は名前等だけを口頭で言い、例えば、スマホ内に入っている自分の好きな一曲の好きなフレーズをちょっと流す。
  2. 各自が自宅等で録音したものを流す。

音読は?

  1. 最低条件、マスクをつけている条件でのみ音読はできるのだろうが、避三密であれば、ペア音読のようなちょっと2人の距離が近くなり、顔を互いに向ける可能性があるような形では難しいのではないだろうか?つまり、一斉に前を向き、普段喋るような大きさで(声を張り上げないで)音読は可能だろう。
  2. 範読をスマホ等で録音させ、それをもとに体育館、グラウンドで練習させ、録音させたものを持ち寄り、教室でスピーカーを使い流す。(ちょっと手間がかかるなぁ。)学校が休業しているところでは、録音して、教師に提出するという課題を出しているところもある。

ペア音読というと、隣同士というイメージがあり、席の隣同士は近づき易くなる。教室が一斉に音読し始めると、相手の声を聴くために近づくこともあるので、それを避けるためには、一斉音読しかないかな?とも思う。また、机を向かい合わせにくっつけることで、ある程度の距離を保てる(約2mは確保できる。ただし、背面の人とは近づくことになるが、飛沫は後ろに飛ばないはず(そもそもマスクをつけている)なので、距離を保つためにも机を挟んでのペア音読もできる可能性はある。

また、声の大きさをコントロールさせるいい機会になる。日本群読教育の会では、「声のものさし」という図を作っている。
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特に小学校低学年くらいだと、音読というと精一杯声を出すべきだと思っていることが多い。これを機に時と場合により声の大きさをコントロール力を身に付けさせるのもよいのでは無いか?と思う。

グループ討議は?

  1. 先にも書いたとおり、机を挟むことによって、距離は保たれるので、4人が机をくっつけての討議は可能なはずだ。もちろんマスクをつけている状態でである。
  2. 対面してのディスカッションが憚られる場合は、ホワイトボードや模造紙などを用意して、筆談にする。ホワイトボード討議にする。
  3. 対面しているのだから、情報端末を使わなくてもできることをするべき。
  4. 討議中の進行、指示、アドバイスのタイミングに関して、普段なら教師が「ちょっと聞いて」と声を張り上げて言っていたが、それは憚られるので、チャイム、アラームなどで代用する。

発表は?

  1. 教師が前で喋っていてもいいのだから、児童・生徒も前に出て発表は可能なはず。
  2. ホワイトボードに共同で書いたことを元に、他のグループに行って発表も可能なはず。
  3. ホワイトボード等を他のグループに巡回していくというのは、手についたウイルスがホワイトボードにつき、それで蔓延していくという可能性があるので、避けるべき。

zoomを使ったオンライン授業でできることとできないこと

  1. ブレイクアウトルーム(zoomの拡張機能 設定は、webブラウザ上でおこなう)で、グループに分けてのミーティングが可能。
  2. 有機能の「ホワイトボード」は、共有した人しか書けない。手もとの紙やホワイトボードに書いて、ビデオに映すことで、一斉に他者の意見、答え等が見られる。
  3. 一斉音読は不可能。zoomは、声の大きい人の音声しか共有されない。つまり、他人の声を聴きながら声を合わせて音読するということはできない。データ転送量が小さいため、自動で切りかえていると思われる。他のオンラインサービスだったらできるかもしれない。
  4. 一斉音読は不可能なので、交代しながら音読(いわゆる「。よみ」)は面白いかもしれない。誰が今読んでいるのかを確認しながら自分の番を待つことで、集中して音声を聞くことになる。

オンライン授業だと、これもチョーク&トークに陥りがちになり、児童・生徒が授業に参加しないことになってしまう懸念があるので、いろんな楽しめるアイディアが必要だ。

終わりに

この新学期、クラス開き、学年開きで交流のない授業を延々続ける事による被害は甚大であると思う。特に新入生にとって、交流を避けることによる人間関係づくり機会の逸失は大問題だ。今後の学校生活に関わってしまう。「人と交流することは悪いことだ」というイメージを植えつけかねない。もちろん感染を避けるという大前提はあるが、避三密ということをゲームの絶対ルールとして、その枠内で授業に楽しく参加させるという力量が教師に求められる。「シバリ」を楽しめなければ、このような世の中は渡っていかないと思う。

自粛と同調圧力

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4月4日(土)放送の「さんまのお笑い向上委員会」を見て、「あ、濃厚接触、大丈夫か?」と思ってしまった自分が嫌だ。どうやらひな壇番組も「自粛」の方針があるらしく、さんまのお笑い向上委員会も収録されなくなるのかな?と危惧してしまう。週一で楽しみにしている番組だし、私はお笑いのトレンドはここで受けとっているのだ。

それはそうと、半世紀以上生きていると、日本全体での「自粛」ムードは3回ほど経験した。1回目は昭和天皇崩御の時(大学4年生)。2回目は東日本大震災の時(阪神淡路大震災の時はこれほどでも無かったのはなぜか?)。3回目は今回のコロナ禍である。

昭和の終わり、井上陽水が「お元気ですか?」と車の窓から呼びかける自動車のCM(セフィーロ)で、「お元気ですか?」という声が消えた。大学4年生の私はこれが自粛ということなのか、と驚き、こういうことが起こるんだとも思った。とはいえ、脳天気なノンポリな大学生活を送っていたため、昭和から平成に改元する時に、ドラクエをやっていて、全く意識はしなかった。

東日本大震災の時は、テレビCMが無くなった。ACばかりが流れていた。当時の都知事が「こんな時だから、花見は『自粛』しましょう。」と言ったことに、そんなことを政治家が言うことじゃないと、反発して、都庁のもとにある公園で町山さんなどが呼びかけて、花見をやったのをオンラインで見ていた。忌野清志郎の曲をみんながそこで歌っていた。ちょうど私が転勤の時で、転勤先の「話し合い活動の授業なんて以ての外、大学受験のために偏差値を上げる授業をしなければならない。」という「同調圧力」に対して、憂鬱だったのだが、「やりたいことをやるしかない。」という勇気を与えてもらった。

今回のコロナ禍で、自粛ムードがもちろんあるし、自粛するところでは自粛しなければならないと思っている。「三密」は避けるべきだと思うし、避けてもいる。しかし、新潟は人はいないところは多いし、「お出かけ」として、人があまりいない、三密ではない場所に出かけて楽しむことがかなりできる。でも、外出禁止令が出ていないも関わらず、新潟でお出かけするのが全てダメなんていう同調圧力はおかしいし、「そう思っているんじゃないか?」と思ってしまう自分も嫌だ。マスクなんてどこにも売っていないのに、マスクをするのが当然、みたいな同調圧力。マスクをしないで歩いている私を「非常識」と周りが見ているんじゃないか?と思ってしまう私が嫌だ。私なんて必要なときには何日も使っているマスクを使うしかない。今日なんて布マスクを手縫いで作ってしまった。こんなの伊達マスクなんじゃないかな?

「世間の大多数はこうだから、あなたもこうするべきだ」というのが「同調圧力」だ。エビデンスが「世間」である。この同調圧力の方向が正しいかどうかは別として、誤った方向に行ってしまったことは何度かあったはずだ。もちろんその方向がいつも誤っていると言う気はないが、その重苦しい同調圧力を茶化す存在があってもいいし、茶化すまでもいかなくても、同調圧力を気にしない風に振る舞いたくなる気持ちはある。同調圧力に流されて生きるのだってそれはそれで必要な生き方なのだけれど、それに反する言動を封じることはとても危険なことだとも思う。だから私は、「同調圧力」の方向を批判することもしないが、私の言動を「同調圧力」の方向によって制限されたくないというのが本心だ。

世の中、いろんな考えがあっていいし、その考えを受け入れる覚悟はある。「受け入れる」というのは、その考えとおりになるという意味ではなく、「そう考える人もいるんだね。」と認識することだ。その考え自体を抹殺しようとは思わない。その考えがあまりにも不快な場合は、触れる度に不快になるのを避けるためにコンタクトを取らなくするだけだ。だから私の言動をあまりにも不快に思う人は、コンタクトを取らない手段をとってほしいとも思う。ネットではそれが簡単にできるはず。でも、私のためを思う人は、「そりゃ違うんじゃない?」と意見してほしい。

話を元に戻すと、「さんまのお笑い向上委員会」で私が感じてしまったことは、同調圧力に影響されたものだ。芸人たちの健康状態はきっと収録前にチェックしているのだろうし、あの程度の濃厚接触がダメだというのなら、今各地で出番のないJリーガーたちの練習なんて、全て中止にしなければならない。そんなことには思いもよらなかった。ああ、気を許すとあっという間に見方・考え方が影響されてしまう。恐い恐い。スポーツ中継が無いせいなのかな?と、責任転嫁したりして。