Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

「相手の意見は否定しないで」で対話は生まれるのか?

否定しない会議

先日の片桐研究室全体ゼミで、ちょっと時間が余ったので、私が最近もやもやすることをぶつけてみた。

学部2年生の模擬授業の指導案で、「相手の意見を尊重する」っていう文言があったのだけれど、「相手の意見を尊重する」ってどういうことなんだろう?また、会議やディスカッションの方法として、「相手の意見を否定しない」ということを授業者やファシリテーターが真っ先に言うのだけれど、それが「相手の意見を尊重する」っていうことなの?

相手の意見を否定しなかったら、自分の意見を自分の中で否定したり、または、相手の意見を否定しないままスルーすることになって、対話なんて生まれないと思うのだけれど。

以降のディスカッションをかいつまんで記載する。

「否定しない」というのは、頭ごなしにダメ出ししないということ。

ブレーンストーミングでは、否定しないということが、効果を上げる。取るに足らない意見でも、どんどん上げることで、実はその中から他の意見と結びついて、いいアイディアが生まれる可能性があるからだ。

しかし、ここでの話は「対話」を生むディスカッションなので、この件は横に置いておく。

「否定しない」というのは、その場を成り立たせたり、その人が喋っていたら、最後まで聞くということ。

小学生のディスカッションでは、自分の意見を強く主張して他人の意見を聞かなかったり、自分と違う意見だったら即座に反対し、ディスカッションが成り立たない場合がある。ディスカッションのルールを覚え込ませるためには、まず、相手の意見を最後まで聞くという習慣づけのために必要だということなのでは?

小学生に限ったことではないけれど、ディスカッションルールを習得していない段階では、「相手の意見を否定しない」というルールも必要になるときはあるのだろう。話している途中で他人に遮られたら、あんまりいい気分はしないし、そんなことが続けば、ディスカッションで発言しようという気にはならない。

途中で相手の話を止めてもいいはず

大人になると、歳を重ね、ある程度の地位に就いた人の話は長い。そしてその話を「長いよ」と遮る人は皆無だ。話が長い人は、自分の話がすぐれたものだと思っていて、聴衆は聴き惚れていると勘違いしている。または、聴衆の反応を気にしようとはしない。だからどんどん長くなる。

学校現場では「先生の話は黙って聞くものだ」という洗脳がなされている。分からないことがあっても、途中で口を挟んではいけない固定観念がある。「分からないのは自分が悪いんだ」と児童生徒学生は思わされていることもある。だから先生の話はどんどん長くなる。(場合によっては初めから聞かれていない。)

ある程度ディスカッション技能が高まってきたら、「途中で相手の話を止めてもいい」ということを学んだ方がいいのでは?

だってこのまま聞き続けていたらどんどんわからなくなるのだから。話を止めて質問をするという「技能」を良いディスカッションにするためには身に付けなければならない。

しかし、いつまでも、大学生のディスカッションでも「相手の話は否定しない」とファシリテーターが言う場合がある。

ああ、この人は、ディスカッション内容を活性化させようとしたいのではなく、誰も傷つかず過ごせるディスカッションを目指しているんだな、と思う。

「否定しない」という「呪い」

ある学生さんがこんな発言をした

「相手の意見を否定しない」と言われると、ディスカッションはお座なりになって盛り下がるよね。
意見を発表して、みんなが拍手をして、次の人が発表してみんなが拍手をして……。何も考えなくなるし、何の発見もないし、学びもなくなるよね。

もちろん、授業者やファシリテーターはそんなことを期待してはいず、相手に気持ちよく意見を発表させて、その先、ディスカッションが活性化すればいいと思っているはずだ。だが、「否定しない」という「呪い」にかかり、「相手に何か言ったらだめ」「自分の意見を主張したらダメ」と空気が流れてしまう。

じゃあ、「否定しない」という呪いをかけず、別の言葉にするべきなのでは?という話になった。

適切な「ツッコミ」が入ることで、ディスカッションは活性化するはず

適切な反応やツッコミを入れながらディスカッションしましょう

ではどうだろうか?

わからない時には、即座に質問し、でも、その質問のタイミングは、喋っている人が一息入れたときが「適切」なタイミングだし、ボケたらツッコみ、話す内容がぼやけていたら、「つまり、◎◎ということ?」という援助をし、自分の意見と合わないときは、「こういう場合はどうなるの?」と、違う視点での捉え方を話してもらう……。

かなりの高等技術だ。これらができれば、「対話」になるだろう。これを互いにできるようになればいいのだ。考えてみれば、個人ゼミの時に私がしようと思っていることだ。

ある院生さんが

先生と1対1の場合はそうしているつもりなのですが、3人以上のゼミになるとなかなか……。

と言っていた。そうか。1対1だったら対話は生まれやすいが、3人以上になると、「今、話を止めてこのツッコミ入れていいのか?」と気後れするというのも分かる。かなりの高等技術なんだな。

私の大学院時代のゼミの飲み会はツッコミ合戦だった。

私は20年以上前、上越教育大学大学院で●川研究室だったのだが、そこでの飲み会は、壮絶なるものだった。他研究室との合同新歓や送別会などでは、1人1人話す機会があるのだが、必ず喋っているときにツッコミが入り、場が盛り上がる。1人がツッコんだら、別の人がさらに「追いツッコミ」をしかけて、話者の話が全く進まないことが日常茶飯事だった。「オーバーラップ発話」が生まれていた。

あのツッコミは、いわゆる歌舞伎の大向こうのかけ声のようで、適切なときに、適切な声の大きさで、みんなに聞こえるように声をかけなければならない。しかも、誰よりも速く。そこで鍛えたからか、内容はともかく、ツッコミのタイミングは外さなくなった気がする。

ツッコまれたら話者がそれに返し、掛け合い漫才のようになる。西●研究室のメンツはみんなそんな力を養っていたし、全体ゼミでのディスカッションはヒリヒリするものでもあった。

先日の全体ゼミではみんなに、「まだまだ、このゼミでは、オーバーラップ発話が生まれないし、まだまだ対話が活性化していないのでは?」と伝えた。担当者がレジュメに沿って延々と喋って、「どうですか?」では、ツッコミも入らないし、何しろ初めに気づいた疑問も説明の最後では忘れてしまう。それは担当者の配慮も必要だし、話を聞いている人のツッコミ力も必要だ。

何に対して「適切」なのか?

「否定しない」じゃなくて、

適切なツッコミ(反応)をしながらディスカッションしましょう

という案が出たのだが、「何に対して「適切」なのか?」というツッコミが出た。

ボケたときに「否定しない」だったらそのボケがスルーされて、ボケた人は悲しい気持ちになるので、適切にツッコむ必要が生まれる。

じゃあ、話を遮られたくない人で、延々とつまらない話をし続けて気持ちよさにひたっていたら、それにツッコまなくてもいいのか?という疑問となる。

いや、良い「ディスカッション」を生むためには、ツッコまなければならないでしょう。

つまり、「適切な」というのは話者に対してでもあるが、それよりも優先することとして「ディスカッション」に対してということになる。

「否定しない」と方法を示すのではなく、

対話の生まれる良いディスカッションにするためには、どうすればよいのか?考えて参加しよう。

に尽きるのかな?

拍手よりも質問

拍手をしたらそこで終わりで、対話は生まれない。先述したとおり、「否定しない」ディスカッションで、よくある風景だ。

私は授業をして拍手されたことはほぼ無いが、模擬授業ではなぜか、授業者が「これで授業終わりです」というと拍手をしようとするが、私が遮る。「拍手したらそれで終わりですよ。」

もちろん、労をねぎらう気持ちで拍手をしているのだろうけれど、私の労は誰もねぎらってくれないのはなぜ?

講演会では必ず拍手を司会者が促してくれる。でも、私は拍手よりも質問がほしいと常々思っている。そしてそれが難しい。質問がたくさん生まれるような講演会ができたらいいと思っている。百の拍手よりも一の質問がほしい。

拍手されるともちろん嬉しい。それは否定しない。喜ばせようと思って拍手をしてくれる。私も拍手はする。でも、質問や意見やツッコミがほしいなー。

「尊重する」というのは、その存在を認め、関心を持つこと。否定しないでスルーすることではない。スルーすることのどこにも「尊重」の要素は無い。