「朝の読書」や朝の読書実践研究会に関わってずいぶんと長い。
昨今では朝の読書の取り組みが浸透したのか、慣れてきたのか、あまり議論されないが、朝の読書を推進しようとしていた時期(約20年前)には、こんな反対があった。
読書は強制されてやるものではない
「強制=悪」という主張だろう。しかしその人は自分の授業で、内容を「強制」していると思っていないのだろうか?
杉田(2013)は次のように言う。
学校教育では、ある言語や歴史観が子どもたちに植え付けられますが、これは明らかに強制的な面を含んでいるでしょう。国内で少数派であるために、自分たちに固有な言語を使えないようになってしまう集団も出てきますし、歴史の見方も一つにまとめられ、多様な見方ができなくなってしまいます。*1
教科書検定は「強制」の最たるものだ。学校では検定に通った教科書以外は自由に使えない。
また、自身の授業システムでも強制的なことをしているのではないか?この内容を行う、期限までに課題提出をしなければならない、テストで点数を取らないと単位を取得できない、そういう強制をして、学ぶ先にどんな意味があるかも伝えず、同じ内容を「強制的に」記憶させることをしている。
「読書は強制されてやるものではない」と言っている人は、自身の教育活動の「強制」を自覚をしていたのか?
「朝の読書」では、読む本の選択は自由だということの意味を分かってほしい。そして、「読むだけ」というのは、他者から評価されないということだ。自己評価で十分なのだ。
私は以上に書いたような「強制」はある程度必要だとも思っている。それで集団の教育水準が保たれている現実もある。集団教育水準が保たれないと民主社会は守れないからだ。
でも、「朝の読書」という教育活動は、民主的な教育の最たるものだとも思っている。(809字)