Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

『学び合い』の師

批判されたり、うまく行かなかった時に、「自分の師は道をこう説いている。自分もそれを信じている。」と思えるかどうか。そこにゆらぎなさというものが出てくる。

「師」というのは、ある1人であったり、今まで出会った先輩たちであったり、ある本であったり、子どもたちの動きであったり、それらを総合した、これから自分が進むべき道を指し示してくれるものである。

「師」がある1人であった場合、その「師」には必ず「師」がいる。つまり自分にとっては計り知れない存在である。だから、子どもたちにとっても計り知れない存在であるのだが、それを自分がよりどころとして指し示すことができるのは、「師」がいるからである。

こういう「師」を持っているから、自分の授業や方針に関して、批判的なことを言われたり、疑問を投げかけられたとき、ほとんどが「的外れ」なものであるということがわかる。

大学院時代に作文教育について研究したが、臨床的データをもとに、実証的な研究は皆無であった*1。つまり、作文教育研究ではその95%以上が「感覚」でものを言っているのである。他の国語教育全体も同じような感じである。

だからといってそれをもとに反論したりはしない。「はいはい、そうですか。」という感じで受け流す。朝の読書に関してもそうだったが、わからない人には分からないのである。分かる人には分かるので、分かる人に対して熱く語ればいいのである。

なんだか、『学び合い』を広めようとして早急にコトを進めて潰れてしまいそうな人が心配である。せっかくいい感じで授業をしているのに、それを認めてもらえない、または、批判を受けることで潰れてしまうのはやるせない。そんなに『学び合い』を無理して広めようとしなくてもいいんじゃないかな?まずは自分の足下をしっかりして、影響力や発言力を徐々に大きくして(つまり、職場の人間関係を構築してから)機を見て伝えていけばいいんじゃないかなぁ?と思う。

私は『学び合い』という言葉を生徒に対して言ったことはない。「『学び合い』をしよう」とは言わない。そうすると場合によっては『学び合い』が標的にされる場合があるんじゃないか?と思うからだ。

そうじゃなくて、世の中に生きていく上で、何が必要で、それを学んだり、身につけるためには、今、目の前の授業で何をすればよいのかということを語る。自ずと子どもたちはどのように活動するのか考え、行動する。その活動を我々が見て『学び合い』と名付けるのであって、子どもたちは『学び合い』をしようと思って活動をするのではない。そうなると『学び合い』が方法になってしまう。

『学び合い』=「師」になっては本末転倒である。「師」が指し示した、何か、大きな重要な目標*2に向かって子どもたちが本来の活動する姿を我々は『学び合い』よんでいるのだ。

うーん、いまいち整理がつかないが、思いに任せて書いてしまいました。

*1:可能な限り調べた中で、2〜3の研究しかなかった

*2:例:人格の完成