Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

曖昧な言葉を使った目標


学部生の授業で模擬授業をやってもらっている。先日までは学校支援フィールドワークで院生が連携校で授業をさせてもらった。

私が指導案を検討するときに一番注目するのが単元目標だ。これが具体的な共有できる言葉で書かれてあるかということを突き詰めていく。

例えば,「○○の仕組みについて発表することができる。」と出してきた場合,「「発表する」は活動でしょ?発表しさえすればいいの?発表することによってどんな力を付けたいの?」と質問する。

そこで「○○の仕組みについて発表することにより,論理的思考力を身につける」と出してきた場合,「論理的思考力」って何?とツッコむ。

「論理的思考力」って何だろう?人間は論理的に思考をしているんだろうか?アプリケーションのプログラムのように全てを言語化できるのが「論理的」だろうか?本当にそんなことはできるのだろうか?「論理的」と言ってもけっこうとっぴな部分もあるぞ。というか,「ひらめき」から後付けで「論理」をくっつけている場合もある。ひらめいて,そのひらめきを説明できれば,「論理的思考力」なのだろうか?そうでもない気もする。

本当の「論理的思考力」かどうかは別として,単元目標(や,本時の目標でもいい)に「論理的思考力を身につける」としたのだったら,それを学習者と共有しなければならない。学習者に説明できなければならない。「先生の考えている「論理的思考力」ってこういうことだから,ここを目標に学習しよう。」としなければならない。

しかし,この定義づけを怠ると,授業者のイメージしている「論理的思考力」と,学習者のイメージしている「論理的思考力」が食い違ってくるのだ。学習者は目標に向かって活動しているつもりでも,授業者にとっては全く別の方向に行ってしまう。

ということで,曖昧な言葉を使っている場合は,つっこみを入れて,言語化させる。

国語でよく使われている「深い読み」なんてのも,具体的にどうするのか,説明できなければ学習者には伝わらない。目標が立たなければ評価もできない。そうなると「活動ありて学びなし。」という状態に陥るのだ。