Pay it Forward,By Gones

上越教育大学 教職大学院 教授 片桐史裕のブログ

巨人の肩に乗る話

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どうして研究しなければならないのか?

「どうして大学院では研究をしなければならないのか?」と質問した人がいる。これは、「どうしてアルビレックス新潟に入ったらサッカーボールを蹴らなければならないのか?」という質問と同義であると思っている。大学院は研究機関であるからだ。

ニュートンがどうしてこんな素晴らしい発見が出来たのか?と質問され、「巨人の肩に乗って先を見ただけだ」と手紙に書いたという話がある。

その巨人の肩に乗る機会と環境があるにもかかわらず、乗らず、先も見ないというのは、ゴールの前にキーパーがいない状態のPKを蹴らないのと同じである。この1ゴールは、自分のためであると同時に、チームのためでもあり、後のクラブのためのキックであるということに気付いてほしい。

ゴールキーパーがいないPK

今そこに立っているあなたは、あなただけで立てたということではない。それまでの先人の積み重ねで、機会と環境を得て、自分がボールを蹴ることにより、これから来る人たちの機会と環境を作っていくのだ。たった1蹴りだが、今蹴らないとその後、その道を進もうとする人にとっては苦難の道になるかもしれないのだ。
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だから、研究は、自分のためだけにするわけではない。後から何百年も続く人のために、今するのだ。大学生までは、自分のためだけに卒業論文を書くという意識でも良いかもしれない。でも、同級生がみんな社会に出て、働いているにもかかわらず、研究機関にいるのだから、自分のためだけに研究なんてしてはいられない。「社会のために」という意識を持たないでどうするのか?

「今」は存在するのか?

時間を考えるとき、「今」というものは存在するのかしないのか?という議論がある。「今」は一瞬の後に「過去」となる。「今」というのは「過去」と「未来」の狭間である。「今」というのは「点」であり、「点」というのは長さは無い。ということは、「今」は無いのだ。

研究も同じように考えると、「今」考えている研究者は存在せず、「過去」の産物を受け取り、「未来」に研究結果を残すことにより、その時の「今」が「過去」として存在することになる。つまり、研究して成果物を残すということは、研究者の存在意義なのだ。

執筆することでランクアップ

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論文を書くのは孤独な作業だ。きっと今まで書いてきたような形態の文章ではなく、論文は、論文なりの手続き、作法がある。コツコツ文字を埋めていき、これで大丈夫、と思いきや、ダメ出しを食らい、書き直す。大丈夫、と思いきや、誤字脱字のオンパレード。連番が整っていない。インデントがおかしい。4ページに収まらない。しかし、その作業を行うことで、「人に読ませる」ということを否が応でも意識する。この論文を書き上げることで、大学院生としてのレベルが1つアップする。基本色から上級職になれる。遊び人からパラディンになれる。これはやってみないと実感出来ないことだ。

本日、臨床教科教育学会の発表論文提出締め切りだった。うちの研究室の院生、特にM1のみんなも苦悶の末、提出することが出来た(はず)。そう、あなたたちも研究者の第1歩を踏み出しました。

宿題

さて、年度末までには、無理矢理4ページに収めたものを、フルバージョンに書いてもらいましょうか。泣く泣く削ったデータ、グラフ、文章、主張、そのままでは化けて出ます。きちんと論文に書き込んで(供養して)、成仏させましょう。